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エジプトの旅    カイロ

エジプト・カイロ
 「エジプト」、ヒエログラフと多くの神々が思い浮かびますが、それは古代の話です。今ではイスラム教を信奉しアラビア語を話すアラブの国なのです。639年ローマ帝国の統治下のエジプトはイスラム勢力から侵攻されました。
 イスラム帝国軍の将軍アムル・イブン=アースは、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブ側のエジプト支配の拠点として軍営都市(ミスル)を築きました。ミスル・アル・フスタートと名付けたそうです。これがカイロの始まりです。
 初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配の構築に努めました。このように古来から栄えていたアレキサンドリアやルクソール(テーベ)に比べるとカイロの歴史は以外と浅いのです。
 このフスタートはイスラムの正統カリフ(641−658年)、ウマイヤ朝(658−750年)時代のエジプトの州都でした。やがて地中海最大の商業都市に成長していったのです。
 969年、現在のチュニジアに興ったシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍によってフスタートは征服されたのでした。
 そしてフスタートの北3km郊外の地点に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル・カーヒラ」を新都として建設したのでした。ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、アズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えていました。
 カーヒラとは勝利者という意味だそうです。このイタリア語読みがカイロとなるのです。スルタンやアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市として発展したのです。
 カーヒラはファーティマ朝200年の首都となりました。1258年にバグダードがモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地となったのです。
 アイユーブ朝のサラーフ・アッディーンによってシーア派からスンナ派に移行され、イスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになりました。
 アッディーンはモカッタムの丘の近くに城砦(シタデル)を建て、マクルーム朝からムハマド・アリ朝まで鉄壁の守りを誇る城塞として発展させたのです。
ムハマド・アリ・モスク
 14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は15世紀以降、ペストの流行などで次第に衰退しました。1516年にマムルーク朝がオスマン朝に征服されました。スルタンもカリフもいないオスマン帝国の一地方州の州都になってしまったのです。
ムハマド・アリ・モスク
 1798年ナポレオンはエジプトに侵攻しました。イギリス、オスマン朝連合軍が反撃し、混乱期に軍人ムハンマド・アリが台頭してきました。アルバニア出身のアリはオスマン朝から将校として派遣され頭角を現したのです。彼は実権を握ってオスマン朝から半独立し、近代化政策を次々と推し進め対外的にも積極策をとりました。
ムハマド・アリ・モスク
 1805年に彼はムハンマド・アリ朝を打立てエジプトの世襲支配者としても君臨したのでした。カイロ復興計画で近代都市の基礎造りが行なわれました。
ムハマド・アリ・モスク
 1952年、事実上のイギリス支配に対し「エジプト革命」が起こりました。当時中佐だったナセルが自由将校団という若い軍人のグループを率いてクーデターを起こしたのです。ムハンマド・アリ朝もこれにより崩壊しました。2300年ぶりにエジプト人による国家が建国されたのです。
ムハマド・アリ・モスク
 現在、カイロ首都圏の人口は1600万人を数え、アフリカ大陸、中東地域いずれにおいても最大の人口を有する大都市になっています。。前述のように長い時代を通じてイスラム世界における学術、文化、経済の中心地、中東屈指の大都市なのです。
ムハマド・アリ・モスク



シタデル(城砦)
 「サラーフ・アッディーンのシタデル」はイスラム地区の南東、モカッタムの丘にあります。アイユーブ朝の創始者サラーフ・アッディーンが十字軍を阻止するために1176年に建設したといわれています。
 アラビア語ではシタデルのことを「カルア」と呼び、エジプトではアルアともいわれるそうです。サラーフ・アッディーンの死後も建設が進められたため城内にはいろいろな時代の遺産が残されています。
 アイユーブ朝のあと、マムルーク朝、オスマン朝、ムハンマド・アリ朝、イギリス統治時代まで城砦として、居住スペースとして使われていたそうです。
 壁内にはムハンマド・アリ・モスクやソリマン・パシャ・モスク、宮殿、岩を90m掘って造られた2階建てのヨセフの井戸、軍事博物館、警察博物館など、興味深い建物が数多く混在しています。
 カイロ市内を一望のもとに見渡すことができるここシタデルが支配の中枢として機能したのです。城壁からのびる何本もの塔が印象的でした。



ムハマド・アリ・モスク
 威風堂々たる外観です。すらりと伸びる2本のミナレットが印象的なモスクです。内部及び外壁に雪花石膏(アラバスター)を使用しているため、「アラバスター・モスク」とも呼ばれています。
 ムハマド・アリ朝時代に建設されたビザンチン(オスマン・トルコ)様式の壮麗なモスクでシタデルの北側頂上に位置しています。
 1842年ムハマド・アリによって建設がスタートし、1857年息子のサイード・パシャの時代に完成したそうです。トルコのブルーモスクを手本にして造られたそうです。ドーム型の天井から吊されたシャンデリアやランプの光がきれいでした。
 ムハマド・アリはルクソール神殿に立っていたオベリスクをフランスに贈りました。中庭の時計台はこれに対するフランスからの返礼です。現在、パリのコンコルド広場に建っています。
 カイロの街が一望できます。遠くにギザのピラミッドもかすかに見えました。巨大なドームと鉛筆型の2本の高いミナレットは独自のスタイルだそうです。



エジプト考古学博物館
 カイロの中心地タハール広場に建つエジプト考古学博物館には、過去5000年にわたる古代エジプトの歴史的な遺物約12万点以上収蔵されているそうです。エジプトの美術品は摩訶不思議な魔力がありヨーロッパでは人気があり17、18世紀に多くが流失しました。
 1863年、フランスの考古学者オーギュスト・マリエットによって博物館はカイロ郊外ブラークに設立されました。収蔵品の増加や建物の老朽化でギザへ場所が移されました。
 1902年、現在の博物館がこの場所に完成し、マリエットは初代館長になりました。フランス政府から発掘された遺産を送るように要請されたのですが、彼は文化財は現地に保存すべきだとして国外流失を防ぎました。
 マリエットは結局本国へは戻らずに、エジプトで亡くなったそうです。彼の遺体は、博物館の前の偉業を称える銅像の下に今も眠っているということです。
 エジプト考古学博物館は2階建てでそれ程大きいとは感じさせませんが部屋数は100以上あります。博物館の2階部分の大半がツタンカーメン王の秘宝に充てられていて貴重な財宝などを展示しています。
 この建物は博物館を目的に建てた世界で初めての建造物だそうです。フランス人マルセル・ドゥールニョンが設計しました。当時、登場したばかりの鉄筋コンクリートを使った革新的な建物にしたのです。

 18・19世紀にエジプトが植民地支配を受けていたため、貴重な遺物の多くが国外に持ち出されてしまいました。
 中でも1779年、ナポレオンがエジプトに遠征した時、ナイル河口の都市、ロゼッタで発見されたロゼッタストーンは古代エジプト文字(ヒエログラフ・デモティック)とギリシャ文字の3書体で同一内容が書かれていました。
 1822年フランス人シャンポリオンによってロゼッタストーンを基にエジプトの象形文字(ヒエログリフ)が解明されました。この貴重な石も持ち出されてしまいました。アレクサンドリア協定で他の多くのエジプトの遺物とともにイギリスに引渡され、現在は大英博物館が所蔵しています。この博物館にはコピーが置かれていました。
働く人々の像
 第11王朝のファラオ、メンチュホテプ1世像です。ハトシェプスト女王の神殿近くにあるディエル・エル・バハリの葬祭殿にあったものです。高さは2.3m、オシリスの玉座に座るファラオは白い衣と赤く彩色された冠を付けています。白衣の下の王の体はオリーブ色をしています。
 クフ王の兄弟でヘリオポリスの最高位の神官だったラー・ホテプと妻ネフェルトの像(高さ121cm)です。座像は2塊の石灰岩を彫ってつなぎ合わせたものです。メイドゥームのラー・ホテプの墓で見つかりました。
 クフ王の座像です。象牙製の7.5cmの小さなものです。建造当初、高さが146mもあった世界最大のピラミッドで有名なクフ王ですが本人を物語るものはこれだけだそうです。
 村長の像です。第5王朝、古王国時代の有名な木彫りです。紀元前2500年頃のメンフィスの司祭である高貴なカーアペルを表わしています。1860年に発見されたとき、発掘作業をしていた人夫達が彼らの村長に似ていたので名付けられてしまったそうです。
 中央はカフラー王の後継者の第四王朝メンカウラー王の像です。左はハトホル女神です。右側の女神はエジプトの各州の女神だということです。ギザのメンカウラー王のピラミッドのそばの神殿跡で見つかったもので、発見された5体のうち3体がカイロ博物館に収められているということです。
 小人セネプとその家族のほほえましい像です。セネプは宮廷織工の長でした。隣には優しく腕を組む妻がいます。セネプの足の下には二人の子供達が彫られています。カフラー王のピラミッドの北にあるセネプの墓で発見されました。


ツタンカーメンの秘宝
 20世紀最大の発見といわれるツタンカーメンの秘宝が2階にあります。重さ約11kgの「黄金のマスク」は19歳の少年王がかぶっていた純金製のマスクです。若き日のツタンカーメン王の顔の特徴がよく表現されています。
J-60.JPG - 6,510BYTES  背中のヒエログリフは死者の書の一部が引用されています。王の象徴である蛇と禿鷲(はげわし)の紋章のついた、メネスと呼ばれる頭巾(ずきん)は、鉛ガラスを流し込んだ黄金製で、目の部分にも象眼が施されています。長さ約50cmのマスクはツタンカーメンの顔に密着していて約200度の高温で処理しはがされたそうです。
 3重の人型棺のうち一番内側にあった黄金の棺です。胴体部分には上下エジプトの象徴であるコンドルと蛇が翼を広げた姿で描かれています。
J-61.JPG - 14,216BYTES  黄金の棺のすぐ外側にあった黄金の外棺です。木製で表面に金箔が貼られています。色ガラスが埋め込まれ、こまかな装飾も施されています。
 ツタンカーメンはわずか9歳で王位を継承しました。18歳で突然死亡したと推察されています。暗殺された可能性も高いそうです。王妃はアクエン・アテン王の三女のアンケセ・ナーメンでした。
 カーの立像です。カーとは「守護霊」を意味していてファラオの墓の前には必ずこの像が置かれているそうです。これはツタンカーメン王の等身大で作られているそうです。立像の黒い色は再生と豊穣を表わしているそうです。
 ツタンカーメン像です。木製の像に金箔を貼った平均70cmぐらいのものです。黒ヒョウに乗った像はファラオの圧倒的な権力を誇示し、パピルスの舟に乗った像は宗教的な権威を示しています。
 黒檀の木と象牙で作られたゲーム盤です。盤の上には30の四角に区切られ駒のようなものも見つかっています。
 ツタンカーメンの黄金の玉座です。金箔で装飾された玉座は、宗教儀式以外の時に使われたようです。玉座の背もたれには、ツタンカーメン王とアンケセナメン王妃が描かれています。前部の2本の足の上部には、玉座を護るライオンの頭が取りつけられています。 玉座の高さは104cm、幅53cm奥行き64.5cmあるそうです。
 紀元前1550年頃アハメス王がヒクソスをエジプトから追い出し、テーベ(ルクソール)を首都とした新王国時代が始まりました。ツタンカーメンの前の王は兄でもあったアメンホテップ4世でした。
  アメンホテップ4世は宗教勢力の政治への関与を嫌って、それまでの神を全て否定して唯一神アトン・ラーの信仰を強制しました。自らもアトン神の使いであるイクナトンと名乗りました。ツタンカーメン王になると元のアメン神崇拝に戻し、国の安定を回復させました。
 黄金のカウチです。儀式用に作られたもので上に金箔が貼られています。前方には牛、ライオン、カバをかたどった彫刻が付いています。それぞれには様々な意味が込められているそうです。
 ツタンカーメンが納められていた最も外側の厨子(4重)です。木製で金箔が貼られています。なんと全部で八重になっているのです。
 ツタンカーメンの厨子は特別室にある棺と今も墓にある3番目と4番目の棺を除くと特別室前の通路に展示されていました。
 ツタンカーメンの墓は小さかったこともあり盗掘を免れました。1922年無傷のままの状態でハワード・カーターによって発見されました。
 古代エジプトでは死後の世界が信じられていました。あの世でも不自由しないようにと、家具や食べ物をはじめ、家畜、家来の模型など様々な副葬品が納められていたのです。
 カノポス壷です。カノポス容器はミイラを作る際に、体内から取り出した内臓を入れる容器です。アラバスター(石化石滑石)製の容器です。
 カノポス壷の外側の黄金の厨子です。
カノポス壷を包み込んでいます。金箔が貼られた木製の櫃(ひつ)です。イシス、ネフティス、ネイト、セツケトの4女神が護っています。
 アヌビス神といわれるものです。発見されたときの写真が飾ってあります。死者の神でありミイラの制作を司り、来世で死者に付き添うと信じられていました。
 金箔が張られ、目は黒曜石、爪は銀で作られたアヌビス神が座した厨子の中には、宝石や護符が納められていたそうです。アヌビスは、古代エジプトで神聖視されたジャッカルです。
 アヌビス神は木製の像の上に黒い樹脂を塗り、耳の穴や首輪には金を使っています。長い尾は箱の下までのびています。 王墓の再奥部にあったカノポス厨子を護るかのように置かれていて、発見された時は、花の首飾りをしていたそうです。
 古代エジプトでは死後の世界が信じられ、死者は来世で復活すると考えられていました。そのためにミイラにして肉体を保存しておくことが不可欠だったようです。
  2階にあるミイラ室はファラオのミイラ11体が安置されています。「王家の谷」に葬られていたラムセス2世は古代エジプト新王国時代第19王朝のファラオです。アブ・シンベル神殿など建設しました。今はここに眠っています。


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