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エジプトの旅  ルクソール・カルナック神殿

カルナック神殿
 ルクソールは何世紀にもわたってエジプト帝国の首都であったテーベです。かってこの町は豊かな都として世界中に知れ渡っていました。
 ホメロスのイーリアス第9章で「百の門のあるテーベ」として歌われていました。アラビア語でルクソールは「城」、カルナックは「砦」という意味だそうです。
 カルナック神殿はナイル川の東岸にあります。こちらの地区は現世を生きる人間が日常生活を送るための場所でした。神殿にはアメン大神殿、ムト神殿、コンス神殿などからなる巨大な神殿群があります。古代エジプト宗教の総本山ともいえます。
 創建は中王国時代といわれています(紀元前21世紀頃)。ここに最後の増築を行なった王はプトレマイオス8世だそうです。紀元前2世紀頃のことですから19世紀にもわたってカルナック神殿は変貌を遂げていったのです。
 この神殿に付随する小さな神殿として、メンチュ神の神殿、 アメンの神・ムゥト女神の神殿、月の神でアメンの息子のコンスの神殿などがあります。中王国時代の第11王朝時代はメンチュ神が基だったようです。
 王自身が神であった古王国時代とは異なり、ルクソールが首都として栄えた時代は、王は神の助けを必要としていました。メンチュ神は軍神であり戦いに勝つ度に最高神としての地位を得ていったのです。
 第11王朝がメンツーホテプ4世をもって断絶後、宰相であったアメンエムハトは地元テーベの神だったアメン神を主神に祭り上げたのです。平民出身でありながら恐るべき才能とカリスマ性で第12王朝のアメンエムハト1世になってしまったのです。
 アメン神は世界の誕生にかかわった神や女神の一つで不可視の真理(目で見えない真理)を司る神であったそうです。アメンという名前自体「隠れた者」という意味でしたので抽象的でとらえどころのない神であったようです。そして古王国時代の最高神であった太陽神ラーと習合しアメン・ラー神となったのでした。
 入口の前のスフィンクス群です。両サイドに並んでいます。昔はカルナック神殿からルクソール神殿まで、このスフィンクスが並んだスフィンクス参道であったそうです。
  アメン大神殿の入口となるスフィンクス参道と第一塔門です。この門を見ただけでこの遺跡がどれだけ大規模で素晴らしいものか予感させます。ここのスフィンクスはギザの大スフィンクスやメンフィスのスフィンクスとは違って頭が羊になってます。
 第1塔門の高さは43m、幅は113mあるそうです。この塔門は未完成ですが、エジプト最大の塔門だそうです。日干しレンガが多く残っているのが特徴です。
 これらは土を盛っていきながら日干しレンガを積んで、土を削除しながら彩色やレリーフが施していったと考えられているそうです。
 日干しレンガは、ピラミッドの巨石を積み上げるための斜面の通路にも多く使われたようです。ナイルの氾濫で運ばれた粘土に藁を混ぜて型に入れ、天日で干しただけの物です。風化しやすいので他では現在はほとんど残っていないのです。
 セティ二世のオベリスクです。オベリスクは太陽神崇拝の象徴で、継ぎ目のない赤色花崗岩で作られています。先の尖った四角柱のような形で、エジプトでは古い王朝時代から、貴族の墓には必ず一対立てられていたようです。 
 カルナックは「イペト・スート」と呼ばれていたそうです。意味は最も崇められた場所という意味だそうです。造物主アメンが自身の誕生後、森羅万象を生じさせた「世界の中心」を意味しているということです。
 ラムセス3世神殿の中庭のオシリス柱列柱廊です。ラムセス3世像は16体並んでいます。第20王朝のラムセス3世は「海の民」を撃退した歴史的功績があった人です。
 第18王朝の時、カルナックのアメン神官団は勢力を増し政治的発言力が強くなり次第に押さえ込まれてきていました。ラムセス3世は熱烈なアメン信者であったため神官団は再び勢力を吹き返しました。
 ラムセス3世は生涯で数度にわたり武装リビア人と戦っています。それらの戦利品のほとんどをアメン神官団に寄進してしまったそうです。これらの寄進によってカルナック神殿の財力は史上最高になったそうです。
セティ2世神殿
 第二塔門手前左にパネジェムの巨像があります。これはもともとはラムセス2世が作ったものです。
 第21王朝のパネジェム1世が自分の名前に書き換えてしまったので「パネジェムの巨像」と呼ばれています。500年も前にこの像を造ったラムセス2世はさぞ怒っていることでしょう。
 足の間に立っているのはベントアナト王女です。両足を揃え両手を胸の前で交差しているのは「死後の像」だそうです。片足を1歩前に踏み出しているのは「生前の像」になります。
 ラムセス3世の神殿です。アメン神の加護によって歴史的勝利を勝ち取ったと信じるラムセス3世は多くを寄進しました。歴代の王と比べて群を抜いているそうです。
 寄進の内容は息子のラムセス4世が作らせた「大ハリス・パピルス」に詳しく載っているそうです。アメン神への寄進は意識的に行なわれたのです。
 大列柱室の入口です。中央には列柱室最大の高さ23m、直径2mのパピルスをかたどった円柱が12本並んでいます。巨大なパピルスの茂みは、創造主の近辺に満ちている生命の力の象徴なのです。 D-167.JPG - 16,516BYTES
 パピルスの根はヌン(地下水位)の中に伸び、茎は上に伸び上がり、花冠は青く塗られた天井の空に向かって開いているのです。
 第二塔門を抜けると大列柱室になります。最長21メートルのパピルス柱は合計134本も林立していて、しかもその一本一本に細かいレリーフが刻まれています。
 大列柱室は幅102m、奥53mあるそうです。開花式パピルス柱と閉花式パピルス柱で構成されています。またこの場所は映画「ナイル殺人事件」の舞台にもなっています。
 パピルス装飾のある柱頭は円周が15mもあり、50人が乗ることができるそうです。広大な中で太陽光線と柱の創り出す光と影のコントラストは円柱の森にふさわしい感動的な光景です。
 大列柱室はアモン神殿の一部なのです。多柱式神殿として世界最大の物なのです。パリのノートルダム寺院をすっぽり内蔵させてしまうくらいの大きさがあるのです。
  敷地面積は40ヘクタールあるそうです。ラムセス3世の時代にはテーベの街の大半がカルナックの所有物となったそうです。
 テーベの産業を手中の納めただけでなく、国内各地に存在していた支神殿も支配下に入れたそうです。エジプト国内には昔からのオシリス神、プタハ神などの神殿が多くありましたが、それらの3分の2を占有するという所までいったのです。
 ヌビア軍によって侵略された後、第22王朝のシェションク1世によって再びエジプトは統一されました。紀元前945ー715年の間です。
 宗教政策を重視したシェションク1世は息子イウプトに南の宰相の地位とアメン大神官を与えました。そして長い間途絶えていたカルナック神殿の増築も行なったのでした。
 彼の死後王位についたオソルコン1世も息子のシェションク2世にもアメン大神官の地位を与えています。王家にとって常に念頭に置くべき要職になっていたのです。
 第22王朝の弱体化が進み第23王朝、第24王朝では王朝並立の時代となり支配系統は破綻して権力者は争ってエジプト全土が戦火の中にあったようです。
 アメン大神殿のオベリスクです。右の先の鋭い方がトトメス3世のオベリスクで左側のがハトシェプスト女王のオベリスクです。
 一枚岩でつくらているオベリスクは神への捧げものです。ハトシェプスト女王のオベリスクは、高さ30メートル、重さ318トンもあるそうです。エジプトに現存するものの中で最大のオベリスクだそうです。トトメス1世のオベリスクは、高さ21.8m。総重量は約130トンだそうです。
 トトメス3世祝祭殿です。ここにも2列10本の円柱と1列32本の角柱からなるからなる美しい列柱室があります。角柱の表面の6世紀頃の絵画からキリスト教(コプト教)教会として使われていたようです。
 トトメス3世はトトメス2世と側室イシスとの間に生まれました。トトメス2世が早く亡くなったため6才で即位しました。トトメス2世の正室ハトシェプストが理由を付けて前例になく強引に女王に即位したため22年間共同統治しなければなりませんでした。
 ハトシェプスト女王はトトメス1世と母イヤフメスの間に生まれトトメス2世の正室でした。実子はネフェルダーという女でしたので側室の子トトメス3世の即位に同意しました。 
 国家神アメン神がトトメス1世の姿で母イヤフメスと情を交わして生まれたのが、ハトシェプストであることを父トトメス1世が認めハトシェプストに女王になることを勧めたという話を作りました。そしてこの事を理由に初の女王に即位し共同統治したのです。
 トトメス3世はトトメス1世以来再び領土拡張に努めました。北はシリアのユーフラテス河の上流地域、南はヌビア奧深くまで侵攻してエジプト史上最大の領土拡大をしました。紀元前1470年頃です。 
 トトメス3世は幼い頃からハトシェプスト女王に疎外されつづけたことから彼女を憎んでいました。ハトシェプスト女王の造ったほとんどの像やレリーフを削り取って彼女が死後神になれないようにしたといわれています。
 聖なる池の近くに幸福を呼ぶスカラベ像があります。周りを7回廻って願い事をすると夢がかなうそうです。ケプリ神は日本では「糞ころがし」とよぶタマオシコガネのことで,円い糞が太陽で虫は太陽を押し歩くことで日が昇り、日が沈む太陽神ラアーの使いだと信じられています。
 シャンポリオンの落書きです。教養もある言語学者が人類の遺産に落書きするとは考えられません。その上ラムセス2世のオベリスクの1本を1831年にエジプト太守のムハマド・アリからフランス王ルイ・フィリップに寄贈するようにけしかけた人物なのです。
 トトメス3世から750年後の紀元前715年、ヌビアからきたビアンキによって第25王朝が開かれ再びエジプトは統一されました。ハトシェプスト葬祭殿にはヌビア遠征のレリーフが描かれていましたが第20王朝末期にエジプトから独立していました。
 ヌビアの国教も旧宗主国であったエジプトと同じアメン信仰でした。ヌビアの首都ナパナ近郊にはカクナック神殿を模したアメン神殿があったそうです。そのためカルナック神殿に詣でたり寄進することは願望でもあったのです。
 ラムセス3世神殿の前のタカルカ王のキオスクはその唯一の遺産です。第25王朝のビアンキの後継シャバカ王なども広範囲に寄進を行なったようですが、甥のタカルカ王の時、テーベの知事に命じて造られた物だそうです。
 この時代はアッシリアと戦った時代でした。タカルカ王は紀元前673年のアシュケロンの反乱の際、援軍を送ってアッシリアを遠ざけました。紀元前667年アッシリアのバニパル王がエジプトに大遠征軍をおくりタカルカ王は敗れます。
 この時カルナック神殿は地方長官メンチュエムハトの気転で破壊から守ることができました。その後ヌビア軍がアッシリア軍を追い払いメンフィスまで奪回しました。タカルカ王の従兄弟のタヌトアメン王でした。
 アッシリアのバニパル王は容赦ない反撃に出て再び侵略しました。エジプト遺産の保護などは念頭になく略奪行為の連続でカルナック神殿も破壊尽くされたようです。紀元前664年最悪の年となったのです。



ルクソール神殿
 カルナック・アメン大神殿の副神殿として、第18王朝トトメス3世によって建てられました。トトメス3世は幼少よりハトシェプスト女王と共同統治し女王の死後アジア遠征までして領土を拡大しました。紀元前1470年頃のことでした。
 ルクソール神殿はカルナック神殿とは、南に3キロメートル程離れています。かつて二つの神殿は、ネクタネポ1世のスフィンクス参道と呼ばれるスフィンクスが両側に並ぶ参道で結ばれていました。
 カルナック神殿のスフィンクスは牡羊の顔をしていますが、ルクソール神殿のスフィンクスは人の顔です。 
 ルクソール神殿は豊饒を祈ってアメン神の祭りを行うために、カルナック神殿の付属神殿として建てられたものだそうです。古代エジプト時代、年に一度行われた「オペトの大祭」の時に、アメン神はカルナック神殿を出てルクソール神殿を訪れたのです。
 第1塔門のラムセス2世の2体の巨像です。この神殿も何人ものファラオ達が増築していますが、中でも第18王朝のアメンヘテプ3世と第19王朝のラムセス2世が際立っています。
 アメンヘテプ3世の時代は、古代エジプト史上最も安定していて、爛熟した文化が生まれた時代です。ラムセス2世は紀元前1285年のカデシュの戦いでヒッタイトを打ち破っています。この様子をオベリスクに刻み込んでいます。
 第一塔門の前の高さ10メートルもあるオベリスクです。右側にも対の1本のオベリスクがありましたが、今は台座だけが残っています。
 このオベリスクはラムセス2世によって「太陽神が沈む地平線」と名付けられ、彼の称号が繰り返し3列にわたって彫り込まれているそうです。
 第1塔門前には1本のオベリスクが立っています。かつては対をなしていたオベリスクの片割れは現在もコンコルド広場にあります。
 1833年、発掘に当っていた言語学者シャンポリオンの強い薦めでエジプト太守ムハンマド・アリはフランスに贈呈したのでした。1836年10月25日パリのコンコルド広場に立てられ現在に至っています。
 ラムセス2世の中庭です。ここにはラムセス2世像がズラリと並んでいます。ラムセス2世と妻ネフェルタリの像もありました。
 ラムセス2世がこの神殿を増築したのは第1塔門とオベリスク、それとここの中庭だけです。アメンヘテプ3世が寄進した規模からすると3分の1程度でしかありません。
 しかしこの第1中庭に立ち並んでいる列柱とラムセス2世のたくさんの立派な像を見ているとネームバリューはあると思います。
 神殿というよりは王個人のために建てられた葬祭殿の様相を呈しているのです。特に第1塔門は巨大で神殿全体を隠してしまう感じです。
 ラムセス2世は過去の有名な王たちが残した事業を自分の時代に追い越し、エジプトの建築技術の進歩と財力を刻み込みたいという強い思いがあったようです。
 ラムセス2世はアメン大神殿ばかりを特別扱いしていたわけでなかったようです。それでもアメン・ラーがエジプトの最高神であったことには変わりはありません。
 アメン大神官には国家の中枢となる人物が任命されたのです。この時代に大神官を務めたバクエンコンスは25年という長期間権力をふるったのです。
 カルナック神殿やルクソール神殿はバクエンコンスの在任中に政治的に捻出させた財力で造り上げられたとも考えられるのです。
 彼は自分の墓碑銘にあたかも自分がオベリスクを造り上げたと刻ませているそうです。王家の血族にあたるとはいえ王と同等の地位にいるかのような様子です。
 ラムセス3世に至ってはそれ以上の熱烈なアメン信奉者だったため神殿が持つ財力は最高潮に達したのです。
 アメンヘテプ3世はルクソール神殿建設で一番功績があった王です。テーベの市街の大規模な都市計画の一環として「アメンの離宮」を建造することにしたのです。神聖な要素のあるここの土地を選んだのでした。
 ここは中王国時代に小さな祠があった場所でした。そこにハトシェプスト女王が小さな礼拝堂を建てたのです。
 テーベの統治者であり、テバンの三位一体の頂点に立つ人のための、プライベートな神殿だったのでした。アメン神と、彼の妻であるムト神、そして息子のコンス神でした。
 アメンヘテプ3世の中庭からみた列柱室です。彼は塔門、列柱、中庭、列柱室、誕生殿などを増設しました。
 この神殿は「南のハーレム」といわれています。年に一度ナイルの増水期にカルナック神殿の主神アメンが妻ムト女神と過ごすためのオペトの祭礼に参加するためのものでした。
 カルナック神殿の副殿として造営され,増築を重ねたカルナック神殿と異なりほぼ一直線に建造されすっきりとしています。新王国時代の神殿建築の傑作の一つです。。
 イスラム教のモスクです。13世紀頃イスラムの聖者エル・ハガックによって造られたそうです。
 アモンホテプ3世の第二中庭です。 オペトの祭礼には聖なる船にアメンの神像を乗せ、豊穣の神オペトのもとを訪れ10日間にわたり賑やかな祭りが行われたそうです。現在の謝肉祭の前身ともいわれています。
 ルクソール神殿はエジプト神殿建築としては珍しく方形ではありません。神殿には付き物の周壁、聖池、神官の住まいなど付属施設もありません。
 神殿の設計、建築監督を命ぜられたのは「ハブの小アモンホテプ」という人物です。王と同じような名前ですが別な彫刻家の家系です。
 神殿の目的はカルナック神殿からのアメン神の聖船を年に一度のナイルの氾濫期に安置させておく離宮でした。そのため神官の居住区もなければ聖池も必要なかったのでした。

一部「エジプトの風景写真」の写真の一部を加工して掲載させて頂いております。


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