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エジプトの旅    王家の谷・西ルクソール

メムノンの巨像
 メムノンの巨像の呼び名はギリシアの伝説、メムノン王に由来します。メムノン王はトロイ戦争でアキレイスに敗れ討ち取られてしまいました。母で曙の女神エーオースは嘆き悲しみました。1日1回の生き返りをゼウスに泣きながら懇願しました。毎朝母が朝日で子供を愛撫するとメムノンは蘇って物悲しい声で挨拶したという伝説です。
 長い年月や地震などによって巨像にひびが入り、朝方右の像の胸部の割れ目を通る風音が人の泣き声に似ていることから噂になりました。その神秘性に惹かれて、ローマ皇帝ネロや、ハドリアヌス帝も聞きに来たと伝えられています。199年破損部がローマ皇帝により修理されて以降は泣き声は無くなったそうです。
 この像は約3400年前、新王朝時代の第18王朝、アメンテヘブ3世の葬祭殿の入り口に置かれたものです。高さ20mのいずれもアメンヘテプ3世自身の像です。第18王朝でも最も栄えた頃の王で、ツタンカーメンの祖父に当たります。
 第19王朝のラムセス2世の第13番目の子メルエンブタハ王は、自分の葬祭殿を造るために、メムノンの巨像だけを残して、神殿の総ての石材を持ち去ったために巨像だけがポツンと残ってしまったのです。



王家の谷
 ルクソール(昔のテーベ)が繁栄したのは中王国時代以降新王国時代です。トトメス1世がピラミッドに似たエル・クルン山麓にはじめて墓を造りました。それ以後壮大かつ華麗な王家・王妃の墓・葬祭殿が造営され続けました。
 墳墓の数は62基に及びます。ツタンカーメンの墓が最後に見つかっています。しかしラムセス11世以降(紀元前1070年頃)は墓はここに造られなくなり次第に忘れられた存在になったようです。
 これらの墓はナイル西岸にあります。西岸地区は太陽の沈む街「ネクロポリス」(死者の都)と呼ばれ墓所として利用されたようです。それに対し東岸は「アクロポリス」(生きる都)と呼ばれたそうです。
 王家の墓群の入り口です。後にはエル・クルン山がみえます。太陽をラー神として信仰していた古代エジプト人にとって、太陽が沈むナイル川の西岸は、死者の聖地であり、やがては太陽のように再生復活し、永遠の生命が訪れる場所と信じていたようです。
 墓の形式はピラミッドではなく岩窟墳墓です。墓荒らしによるミイラの破損を防ぐためこのような形にしたようです。しかも人の容易に近づけない砂漠の奥地に墓は作られたのです。
 砂漠の中に出来た谷は、枝分かれした迷路のようで天然の要塞堅固な地形になっていたようです。王家の谷にある墓は、うずたかく積もった砂を掘り、地底の岩盤に横穴を穿って通路や部屋を造り、墓の中に侵入させないようにしたのでした。
 墓は王の即位後、王の権威と永遠の来世のために作り始められたようです。そのため、墓の深さ、豪華さは王の即位期間の長さに比例しているようです。
 現在見学できる墓はツタンカーメン、トトメス3世、セティ1世、ラムセス6世、アメンヘテプ2世など10基ほどです。紀元前1600年頃の新王朝、第18王朝から紀元前1200年の第20王朝までの墳墓です。
 この頃、エジプトは国力が最高に充実し、オリエント最強の帝国として繁栄しています。これらの墓は、死者が復活する日まで その肉体を保存しておくために堅固な岩の中に作られたのです。
 岩盤の壁や天井には、古代エジプトの独特の絵画やヒエログリフ文字がびっしりと描かれています。 
 パピルスに書かれた死者の書と同じく、冥界に入った死者が冥界の神々の助けを借りて、無事に再生できるように、様々な様子や手引書とも言える呪文の数々が描かれているのです。
 トトメス1世は1700年間守られてきた伝統を捨てました。葬祭殿と墓を分けたのです。そして墓には遺体を埋葬しないで埋葬場所を秘密にしたことから始まっているのです。
 建築家イネニは奥行きの深い岩石を井戸のように掘って玄室に通ずる急な石階段付きの墓を建てました。これが以後の王墓の手本となったようです。
 1922年11月イギリスのカーナヴォン伯の代理人ハーワード・カーターによってツタンカーメンの墓が発見されました。まさに今世紀最大の発でした。
 豪華な副葬品に反して墓そのものは質素なことから、王の不慮の死によって急遽墓が建てられたものと考えられます。そしてラムセス6世の墓の発掘の折の土がツタンカーメンの墓の上に捨てられたために盗掘されずにすんだと考えられています。
 副葬品はすべてカイロにある考古学博物館に収蔵されました。しかし遺体のミイラだけは、ここの玄室に今も黄金の棺に納められ、永遠の眠りについています。
 ツタンカーメンの遺体は金塗りの木製棺、粉末ガラスでおおわれた金塗りの木製棺、純金の棺と三重の棺の中に納められていたそうです。
 純金の棺は史上最高の金細工の一つです。重さ200kgの黄金を使った高さ1.5mの豪華なものです。トルコ石、紅玉髄がちりばめられています。
 豪華な埋葬品の中に干からびた一束の小花があったそうです。少年王の后が愛情の形見として置いたロマンあふれる実話です。



ハトシェプスト女王の葬祭殿
デル・エル・バハリ
 エジプト唯一の女性ファラオ、自分の葬祭殿を「ジェサー・ジェセル」つまり最も 華麗なるものと名付けました。ハトシェプスト女王葬祭殿と呼ばれています。
 ハトシェプスト女王(紀元前1503−1482)はアメン神、父親でもあるトトメス1世、そして自分のために造営したのです。
 ハトシェプスト女王はトトメス1世と母イヤフメスの間に生まれました。トトメス2世の正室でしたが、生まれてきた子はネフェルダーという女の子でした。トトメス2世は短命で世を去りました。後継者は男子と決められていたため側室の子トトメス3世の即位に同意し幼かったため摂政になりました。
 次第に権力の座を狙うようになりアメン神からのお告げで生まれたとする伝説を作り上げてしまいました。国家神アメン神がトトメス1世の姿で母イヤフメスと情を交わして生まれたのがハトシェプストであるというのです。
 このことを父であるトトメス1世が認めハトシェプストが女王になることを勧めたという話です。
 そしてファラオになってしまったのです。この伝説を説明するレリーフが第2テラス左手奥の右側の壁に描かれています。
 また左側の奧の壁にはプント(現在のソマリア)への航海の模様や遠征の様子なども描かれています。
 ハトシェプスト女王が通商にも力を注いでいたことがわかります。プントは良い香料があり当時交易が盛んであったようです。
 建築家のインホテップが活躍した時代から1200年たっていました。センムートがエジプト建築史に登場します。ハトシェプスト女王はセンムートにこの葬祭殿の設計を担当させたのです。
 センムートは褐色の切り立った崖を背景に扇形に広がる地形を利用して葬祭殿を建立しました。巨大なテラスが3段あることが特徴で、その秀麗な姿は当時「輝かしいものの中で最も輝かしいもの」といわれたそうです。
 祭壇を上っていく坂道が、途中で幾度もテラスを横切る形をとっているのも建築家センムートの革新性を物語っています。
 スフィンクスとオベリスクの並んだ広いテラスの奧には柱廊があり、そこからまた次のテラスへ向かう坂道が延びています。
 谷の左側は巨大なメンチェホテプ1世の葬祭殿が占めています。メンチェホテプ1世はハトシェプスト女王より500年も前にこの谷に神殿を建てていました。

 ハトシェプスト女王葬祭殿はメンチェホテプ神殿の影響も受けています。そしてテラスとポルティコを借用もしているのです。
 ハトホル女神の柱頭です。礼拝堂に並ぶ62の円柱には、テーベの墓地の女神をかたどった柱頭が載っています。雌牛の耳、シストラム(打楽器の一種です)、ホルスの家がこの女神を表わしています。
 後世、ハトシェプスト女王葬祭殿には「北の教会」と呼ばれるキリスト教僧院が建てられました。ここはデル・エル・バハリとも呼ばれています。「デル」とはアラビア語で修道院という意味だそうです。この僧院建設は略奪破壊から神殿を守ることにもなったようです。
 デル・エル・バハリの断崖のふもとには、メンチェホテプ神殿、ハトシェプスト女王葬祭殿の他にトトメス3世の神殿もありました。トトメス3世の不満は大きく女王が紀元前1482年に亡くなると女王の名前のカルトゥーシャや像を徹底的に破壊したファラオです。
 そのトトメス3世の神殿はメンチェホテプ神殿、ハトシェプスト女王葬祭殿の間の崖側に建設されていましたが崖崩れによって消滅してしまったそうです。
 第2テラスの北のポルティコの16の面を持つ列柱はギリシャ建築を思わせることから初期ドーリス様式といわれましたがエジプトの様式です。
 ここにあったスフィンクスはニューヨークのメトロポリタン美術館にあるそうです。いまでは考えられないことです。
B-45.JPG - 6,233BYTES  第3テラスの至聖所です。この穴を進むと王家の墓に出られるといわれています。12本の列柱の並ぶ玄関ホールの内側に黒犬の頭をしたミイラを司るアヌビス神が描かれ、奧の壁中央のアーチの狭い廊下でここ至聖所までつなげられています。
 ハトホル女神礼拝所です。ハトホルの奉納された堂々とした別棟です。専用の斜道も付いています。 B-47.JPG - 11,897BYTES
B-42.JPG - 6,442BYTES  トトメス3世によってハトシェプスト女王の顔が削り取られています。レリーフにはプントへの遠征の様子がキリン、猿、黒ヒョウの皮、象牙などと描かれているものもあります。
 1997年11月17日 イスラム原理主義過激派による外国人観光客テロ銃撃事件が起きています。新婚旅行に来ていた日本人の観光客10人を含む60人近くの観光客が殺害されてしまったところです。
 ハトシェプスト女王葬祭殿は1743年に発見されました。1893年初めての発掘調査がエジプト調査基金によって着手され、1911年アメリカ調査団、1961年にはポーランド調査団により発掘、補強、修復がなされました。

一部「エジプトの風景写真」の写真の一部を加工して掲載させて頂いております。


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