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イタリアの旅    ミラノ

 アルプス山脈の麓、ポー川支流に広がる都市ミラノは銀行や商社のひしめくヨーロッパ経済の拠点です。パリ、ニューヨークとともに世界のファッションをリードするモードの街でもあります。
 ミラノはBC4世紀ガリア人によって開かれたようです。コンスタンティヌス大帝が313年にキリスト教の信仰の自由を許す「ミラノの勅令」をここミラノで出したときから名声が高まります。町の聖人として今でも崇められている聖アンブロージュが司祭として活躍しました。
 5世紀から6世紀にゴート族やロンゴバルド族が移動してきて10世紀までその支配下になりました。12世紀頃の社会意識の芽生えから起こったコミューン時代にはミラノは再び繁栄しました。
 十字軍の東方遠征は北イタリアに繁栄をもたらしました。各都市は富み、勢い他の都市を征服しようと各地で争いが起こりました。
 1395年来ミラノ公国として、ヴィスコンティ家、スフォルツァ家の支配を受けました。この小国的都市の発達は富裕市民を生んでルナッサンス文化が花開くことになりました。
 新大陸が発見されたりした15世紀、貿易体系が大きく変わってしまうとミラノや他のイタリアの各都市は沈滞してしまいました。
 小国割拠の状況にあったイタリア半島はドイツ、フランス、スペインなどの侵略を受けました。1796年ナポレオンがミラノに入城しました。
 この時、ナポレオン軍への武器や被服の供給で、ミラノの毛織りや皮が発展したそうです。1848年オーストリアからの独立運動で自治を取り戻しました。1867年イタリアに統一されました。



スカラ座・スカラ座博物館

 スカラ座はレオナルド・ダ・ヴィンチと4人の弟子の像の立つスカラ広場にあるオペラの殿堂です。
 1778年に建てられて以来、ロッシーニ、プッチーニの巨匠の作品が次々に初演され、世界中にその名を轟かせました。
 その後第二次世界大戦の爆撃でほぼ全壊してしまいました。1946年オペラ愛好家の基金などにより再建され、名指揮者トスカニーニによってこけらおとしがされたそうです。
 設計図が残っていたために忠実に再現されたそうです。正面のファザードは馬車に乗った客が入れるように設計されています。
 ショパンの手の石膏型や、ワグナー、トスカニーニのデスマスクなどが保存されているそうです。
ロッシーニの像


ヴィットリオ・エマヌエーレ2世アーケード
 ドゥオモ正面に向かって左側には、 ”ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア”という名のついた十字型のアーケードがあります。イタリア統一の父であるヴィットリオ・エマヌエーレ2世から名付けられています。
 1867年にイタリア統一を記念して造られた都市の商業空間です。第二次世界大戦で破壊されてしまいましたが、1955年にもとの姿で完全に復元されたそうです。
 鉄とガラスで架けられたアーチ型をした屋根を持つアーケードです。ガラス張りの天井がみどころです。南北に197m、東西に105mの通路からなり、これらの通路が十字形に交差しています。
 交差部には八角形の広場があり、この上部に、直径38mのガラス張りの円蓋(クーポラ)がのっています。両側にはプラダの本店などブランド店が軒を連ねています。
 アーケードの十字が交わる床の中心にある牛のモザイクです。この雄牛の局部に足のかかとを乗せ一回転しながらお願い事をすると願いが叶うそうです。
 ガラスのアーケードの上には、4個所それぞれ違った絵が描かれていて、 見回していくと自然と一回転してしまうのです。

 



ドゥオモ
 ミラノの中心にあるドゥオモは、イタリアの代表的なゴシック建築でヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ教会建築です。
 1386年にジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ公の命により着工されました。建築材料にはミラノ西北にあるマッジョーレ湖の薄灰色と薄ピンクの大理石が使われたそうです。
 着工から400年以上も経った19世紀初め、ナポレオンが一時イタリアを支配しました。正面の入口はその時に追築されたものだそうです。
 青銅の扉には聖母マリアの生涯やミラノの歴史などが浮き彫りにされています。中には巨大な円柱が立ち並んでいます。
 完成されたのは1887年だそうです。なんと500年もの歳月がかけられたのです。
 ゴシック建築の最高傑作と言われるドゥオモは、その高さは109mもあり、3300体以上の聖人達の彫刻が飾られています。
 ドゥオーモの全体は、幅93M・奥行158Mのラテン十字形の形をしており、正面部分だけでも、幅61.5M・高さ56Mの大きさをもっています。
 内部面積1万1700uで内部は52本の巨大な柱に支えられています。建設された当時のミラノ市民全員が入れるほどの広さだそうです。
 金色に輝く聖母マリア像を戴く塔は109mあるそうです。第二次世界大戦では、ミラノの街は空襲によりほとんどが焼け野原になってしまったそうです。しかし、ドゥオモの上の「マリア像」は、夜でも上空から見ることができたため空襲の被害を免れたといわれています。
 パリのノートルダム寺院よりも大きく、ローマのサンピエトロ寺院、スペインのセビリアのカテドラルに次いで世界第3の大きさを誇っています。

 外側には2200体、内側には1300体にものぼる彫像があるそうです。145本もの小尖塔がありイタリア最大にして最高傑作と呼ばれているのです。
 内部は美しいステンドグラスがあります。キリストの誕生から始まる聖書の物語が描がかれています。第二次世界大戦中は被害にあわないように別の場所に保管されていたということです。



スフォルツェスコ城
 ドゥオーモの正面から延びている道をまっすぐ660m行ったところにスフォルツェスコ城があります。ミラノ最大のルネッサンス建造物なのです。
 15世紀、領主の城跡にヴィスコンティ家を継承したフランチェスコ・スフォルツァが建てた居城です。庭の小橋をブラマンテが手がけ、広間の装飾はレオナルド・ダ・ヴィンチが携ったそうです。
 このように数々の著名な芸術家が建築に貢献していたのです。当時のスフォルツァ家の繁栄を象徴しているようです。スフォルツェスコ城とはイタリア語で「スフォルツァの城」という意味だそうです。
 庭の奥には考古美術館があります。ここには紀元前からルネッサンス時代までの貴重な美術コレクションが展示されています。
 ミケランジェロが死の三日前まで彫り続けていた未完の大作「ロンダニーニのピエタ」は特に有名です。この時ミケランジェロは既に視覚を失っていました。
 マンテーニャやティントレットといった、有名画家の絵もあります。また城内には考古博物館もあります。
 城はビスコンティ家からスフォルツェスコ家に代わりましたが、城の中にはビスコンティ家の紋章が残っています。ヴィスコンティ家の「ヘビの図柄」の紋章は、アルファロメオのマークにもなっています。



サンタ・マリア・デレ・グラツィエ教会
 1492年、前にあった修道院をスフォルツァ家のルドヴィコ・イル・モーロが建築家ブラマンテに命じて改築させたものです。落ち着いたゴシック建築に壮麗なドームが加えられています。
 この教会を有名にしたのはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」です。これは世界遺産にも登録されています。1497年、スフォルツァ家に仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチが2年かけて完成させました。


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