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上田築城

 小県郡真田の地には真田氏にかかわる旧跡がいくつか残されている。最も北部の角間にある松尾古城は真田氏の北上州侵攻の拠点とも考えられる山城で、次が南に下って真田にある松尾城で屋敷はこの城に近い甲石に在ったという。昌幸が始めに入ったのは後者で、ここも山城であった。さらに南に下った原之郷には信綱の屋敷跡があり、これに隣接して天白山城もある。これに対して、戸石城は村上義清の築いたもので、小県の抑えのために置かれたが、同氏没落後は真田氏の掌中にあったものとみられている。ここも山城であったが松尾城・天白山城より南西にあり、小県一円の支配を志した昌幸が入城する。徳川氏の援助を背景に小県の諸豪族を傘下におさめた昌幸が小県の中央として最後に選んだのが、南に千曲川の断崖をひかえた上田城であった。上田築城は天正一一年(一五八三)に着手され、上杉氏の牽制をうけながらも翌一二年には完成したとみられる。城の西には「小泉曲輪」と呼ばれる場所があり、かつて小泉氏の城郭があったとも考えられる。上田城構築の成果は次の天正一三年徳川氏来攻であらわれ、当時全国でも最強の一つに数えられていた徳川軍を撃退することができ、また慶長の徳川秀忠軍の攻撃もかわすことができた。上田城は従来の城と異なり平城であって、軍事以外に政治・経済・運輸・交通などの地方的中心となるべき目的をもち、城下町が併置され、時代を越えて発展し現在に至っている。


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