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天正の上田合戦

 天正一〇年(一五八ニ)本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀・柴田勝家を共に敗死させ、巨大な大坂城を築いた豊臣秀吉が、天下統一のために次に対決せざるを得なかったのは徳川家康であった。両者が軍事的に対決した天正一二年の小牧・長久手の役は最終的な決着に至らず、両者は互いに自己の勢力拡大を計ることになる。家康は小田原の北條氏直へ協力を求め、援軍の約束を得たが、このとき氏直が条件として提出したのは真田氏が領有していた上州沼田城の引渡しであった。すでに自己の勢力下にあると考えていた真田氏に対して、家康は沼田の北條引渡しを命じた。これに対して真田昌幸は、北上州が以前からの真田領であり、上小地方の領有確保のためにも重要な場所として、この命令を拒絶し、北條氏をおさえるためにも越後の上杉氏と同盟を結んだ。
 天正一三年閏八月、真田を討つべく大久保忠世・鳥居元忠らに信州の保科・屋代・諏訪・依田勢を加えた徳川軍約八千が上田表へ来攻した。合戦は神川あたりで始まり、陽動作戦に乗ってニの丸門まで攻め込んだ徳川軍は、ここで奇襲にあい、大損害を蒙り敗退した。その後真田の支城丸子へ鋒先を変えた徳川軍は、ここでもはかばかしい成果を上げ得ず、上杉援軍の気配のなかで、遂に全軍引湯げとなったのである。この一戦で真田は諸大名から注目されるようになり、秀吉から厚情の待遇をうけ、他方家康とも深く結ばれた。

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