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慶長の上田合戦

  慶長三年(一五九八)八月、秀吉が世を去った後、天下の大勢は家康に傾いてゆくが、豊臣政権の中心にあった五奉行の一人石田三成は毛利輝元を擁立して反徳川の盟主とし、会津の上杉景勝とも結んで家康を東西から挟撃する体制をつくろうとした。家康はこれに対抗して慶長五年五月上杉討伐の軍を起し、真田氏も出兵の催促をうけ昌幸を先頭に信幸・信繁兄弟も加わって出陣した。家康の上杉討伐は三成挙兵をさそい、真田軍が下野国(栃木県)天明宿に至ったとき、その密使が昌幸のもとへ到着する。かくて真田はここで軍をニつにわけ、徳川とゆかりの深い信幸は徳川秀忠軍に加わって関ケ原にむかい、秀吉の知遇をうけた昌幸は、これも豊臣方の大谷吉隆を舅とする信繁と共に上田へ戻って篭城したのである。この真田氏の行動を真田家維持のための策略とする説もあるが、戦乱の時代にあって親子・兄弟が敵味方に分かれることは珍しいことではなく、それぞれの主筋へ忠勤したまでのこととみることもできる。
 慶長五年九月、徳川軍はニ手にわかれ、家康の本隊が東海道を上ったのに対し、秀忠勢三万余は中山道を京に向い、途中上田で真田勢を討伐していこうとした。ところが守兵僅かに二、三千の真田軍にてこずり、本格的な戦闘もないまま時間をつぶして、とうとう秀忠軍は合戦には間に合わなかった。昌幸は石田方に大きな協力をしたことになったが、関ケ原の大敗で功績も水泡に帰したのである。

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