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真田信之の支配

 上田城は、慶長五年(一六〇〇)九月の関ケ原の戦で西軍石田三成方となった真田昌幸の追放後一時城主を失ない、廃城同様になったといわれる。その後上田城を与えられた昌幸の子信之も、反逆の疑いをかけられるのを避けるためか直ちに入城はせず、慶長一六年(一六一一)五月父昌幸が高野山で病没し、元和元年(一六一五)五月の大坂夏の陣で弟信繁(幸村)も戦死、翌ニ年四月に徳川家康が病死するという時の流れを見すえながら、元和二年の末か翌三年にやっと本拠上田へかえった。慶長五年から元和二年までの一五年間上田城を直接支配する城主はいず、配置されていた家臣もわずかであったところから、その間に昌幸の造った城と町とは相当すたれてしまったと考えられるのである。
 信之による上田領の支配は、家臣への本領安堵状や朱印状などの授与(たとえば、慶長六年八月の矢沢忠兵衛宛本領安堵状)、和田・長窪・秋和に残っている百姓召還し状などの一連の公布に始まる。それは支配体制の建て直しと、荒廃した領内の復興を計ったものである。
 城下町復興に着手したのは元和に入ってとみられ、元和ニ年七月に金井善兵衛に命じて原町の伝馬や掃除を厳重に実施させているし、その原町の割り直しに関連して免役を伝えた柳沢文書の日付「巳ノ三月十七日」は、元和三年のこととも考えられる。

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