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愛知の旅           江南市

曼荼羅寺
まんだらじ
愛知県江南市前飛保町寺町202
Tel 0587-55-1695


 日輪山曼陀羅寺は西山浄土宗に属するお寺で、通称「飛保(ひぼ)の曼陀羅寺」と呼ばれています。正中元年(1324)、後醍醐天皇が、天真乗運上人に命じて、建武中興の成就と国家鎮護を祈願する道場として創建した古刹です。
 天真乗運上人は藤原師継の8男で、後醍醐天皇の母の檀天門院の弟にあたり、学識が高く、後醍醐天皇は深く帰依したそうです。藤原師継の所領である村久野庄に正堂を紫宸殿に、中門を擬して多くの伽藍を創建したのです。、
 天文10年(1541)、後奈良天皇の勅願寺となり、6檀林の一つとなりました。始めは月綸山円福寺と称しましたが、寛正3年(1462)空光(くうこう)上人の時、日輪山曼陀羅寺という現在の寺号に改めました。それには言い伝えが残されています。
 藤原鎌足を祖に持ち、孝謙天皇に召された中将姫が美濃の願成寺の観音に参詣の際、病にかかりました。観音様に一心に祈ると快癒し、礼として一本の桜を植え、一幅の曼陀羅を奉納しました。長く寺の宝物とされていましたが、その曼陀羅が寛正3年(1462)に飛保の円福寺に飛んでいってしまったそうです。円福寺では、東の空から日輪が出ると同時に曼陀羅が飛んできたというので、日輪山曼陀羅寺と改めたそうです。
 寛永9年(1632)、地元出身で後に徳島藩祖となった蜂須賀家政が、幼いときに曼陀羅寺の塔頭・本誓院で学んだ縁により正堂を再建寄進しました。また、尾張徳川藩からは寺領231石余りを寄進されていました。正堂と書院は国の重要文化財、地蔵堂は県の重要文化財に指定されています。
 正堂を中心に庫裏、大書院、小書院、曼陀羅堂、地蔵堂、鐘楼、宝蔵、中門、南門(矢来門)が建立し、境内には本誓院、世尊院、修造院、光明院、常照院、寛立院、慈光院、霊鷲院という8院の塔頭寺院があり、曼陀羅寺公園が続いています。

 曼陀羅寺の正堂は桁行5間、梁間5間、1重、入母屋造り、向拝1間、軒唐破風付き、檜皮葺きです。寛永9年(1632)、蜂須賀家政によって寄進されたもので、本尊の阿弥陀三尊を安置しています。御所の紫宸殿を模して造られたといわれ、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定されています。
曼陀羅寺正堂
 曼陀羅寺書院は文禄元年(1592)の建立といわれていますが、寛文3年(1663)から延宝2年(1674)の頃に建てられたと推察されています。桁行1.23m、梁間11.4m、1重、寄棟造の銅版葺きの建物です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦の際、徳川方の池田輝政らが、岐阜城攻略にあたり、軍議を開いた所です。昭和37年(1962)に国の重要文化財に指定されています。
曼陀羅寺書院
 曼陀羅寺の地蔵堂はもとは曼陀羅堂だったものです。正堂と同じ寛永9年(1632)に建てられたと推定されています。文政10年(1827)に、現在の位置へ移築されたようです。桁行3間、梁間3間、1重、寄棟造り、檜皮葺きです。本尊は後醍醐天皇の母・檀天門院藤原忠子の念持仏であった地蔵菩薩です。愛知県の文化財に指定されています。
曼陀羅寺地蔵堂
 曼陀羅寺の曼陀羅堂は桁行5間、梁間4間、1重、入母屋造り、向拝1間、本瓦葺きで、周りに縁、高欄を巡らしています。弘化年間(1844-1847)の建立で、江南市の文化財に指定されています。内部は外陣、中陣、内陣に分かれ、内陣中央の須弥壇には曼荼羅を入れる厨子が置かれています。
曼陀羅寺曼陀羅堂


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