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愛知の旅          知多郡美浜町

野間大坊(大御堂寺)
のまだいぼう(おおみどうじ)
愛知県知多郡美浜町野間東畠ヶ50
Tel 0569-87-0050


 野間大坊は、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざんむりょうじゅいんおおみどうじ)という真言宗のお寺です。本尊は阿弥陀如来です。源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓があります。
 大御堂寺縁起には、白鳳時代(645-710)に役行者(えんのぎょうじゃ)が建立、天平年間(729-749)に僧行基により中興され阿弥陀寺と称しました。大同年間(806-810)には空海(弘法大師)が滞在して一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれています。
 承暦年間(1077-1081)に白河天皇の勅願寺となり、このとき大御堂寺と改称しています。平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた源義朝は、随行していた鎌田政清の舅であった長田忠致の許に身を寄せました。
 永暦元年(1160)、忠致・景致父子は湯殿で入浴中の義朝を欺し殺害しました。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされています。文治2年(1186)平康頼が寺領30町歩を寄進、義朝の供養、小堂を建てました。後に源頼朝は恩に思い、康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任じたそうです。
 建久年間(1190-1199)、源頼朝が諸堂宇を修営、高野山僧侶による大法会を営みました。文禄年間(1592-1596)、豊臣秀吉が寺領190石を寄進、慶長16年(1611)、徳川家康は寺領250石と山林数十町を寄進、尾張藩祖・徳川義直も堂宇を修営し、寺運は興隆しました。

 野間大坊の鐘楼は建長2年(1250)、鎌倉幕府5代将軍九条頼嗣から寄進されたものです。頼嗣は源氏嫡流による将軍が3代で滅びた後、幕府の実権を握る北条家によって置かれた傀儡将軍でした。同時に寄進された梵鐘は建長2年の銘があり、国の重要文化財に指定されています。
野間大坊鐘楼
 野間大坊の本堂は入母屋造り、瓦葺きで、宝暦4年(1754年)に建てられています。本尊は県指定重要文化財の阿弥陀三尊です。知多四国八十八箇所霊場の札所として、本堂が「大御堂寺」(50番札所)、客殿が「野間大坊」(51番札所)となっています。
野間大坊本堂
 野間大坊の客殿は入母屋造り、銅板葺き、平面は方丈形式で、江戸時代初期に建てられています。延命地蔵と称される地蔵菩薩像を安置しています。慶長3年、家康が伏見城の客殿を寄進しましたが、翌年焼失したため、寛永18年に再建されたもので愛知県の文化財に指定されています。
野間大坊客殿
 野間大坊の大門は源頼朝が寄進した門で、建久元年(1190)10月25日に建てられています。門の周りは柵で囲われていて、通り抜ける事はできません。
野間大坊大門
 野間大坊境内には源義朝の墓があります。義朝は平治の乱で敗れ、落ち延びた先の湯殿で家臣長田忠政に入浴中謀殺されました。「我に小太刀の一本なりともあれば」と悲痛な一言を残しました。その慰霊のために小太刀を献ずる習わしができ、小太刀を模した50cmほどの木片が山のように積まれています。
源義朝の墓
 野間大坊境内には平康頼の墓もあります。平康頼は尾張の国司の目代に任ぜられ、源義朝の墓が誰も顧みる者も無く荒れているのを見て、墓を修理して堂を立て供養しました。この噂は京にも聞こえ後白河上皇や清盛はじめ平家一門の人々からも、武士道の礼節をわきまえた人物として評判を得ました。後に鹿ケ谷の陰謀で俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流されました。
平康頼の墓
 織田信長の3男・織田信孝の墓も建てられています。信長の死後、信孝は岐阜城主でしたが柴田勝家・滝川一益と結び、秀吉と対峙しました。兄・信雄によって、岐阜城が囲まれると、開城して秀吉に降伏しました。安養寺で自刃し、ここ野間大坊に葬られました。世辞「昔より主をうつみの野間なれば、報いをまてや羽柴ちくぜん」
織田信孝の墓
 池禅尼(いけのぜんに)の塚もあります。池禅尼は平忠盛の正室です。平清盛の継母に当たります。崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母にもなりました。永暦元年(1160)源義朝の嫡子で13歳の頼朝が平宗清に捕えられました。この時、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したそうです。助命の為に断食をし始めたため、遂に折れて伊豆国への流罪へと減刑したといわれています。
池禅尼の塚


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