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愛知の旅      名古屋市中区

名古屋城
なごやじょう
愛知県名古屋市中区本丸1−1
Tel 052-231-1700


 名古屋の地は古くは那古野と呼ばれ、室町時代には足利幕府管領、斯波氏の領地でした。応仁の乱で斯波氏の勢力が衰えると、駿河守護の今川一族がこの地に侵入し、今川氏親が今の名古屋城二之丸あたりに大永年間(1521-1528)の間に「柳ノ丸」を築きました。そして弟の今川氏豊を城主としたようです。これが名古屋城の前身といわれています。
 「柳ノ丸」は亨禄5年(1532)3月に織田信秀に奪われ、信秀はその子、信長を城主とし那古野城と称しました。天文2年(1553)、信長は居城を清州城に移しました。那古屋城は叔父の織田信光が入りましたが、その後廃城となりました。
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の功績で、家康4男松平忠吉が清須城62万石の城主となりました。慶長12年3月に忠吉が死去し、続いて4月には次男結城秀康も死去しました。忠吉の後は9男義直が城主となりましたが、家康は徳川家が清須城では手狭で水攻めに弱いとの判断から名古屋城の構築を決意しました。
 慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また大阪への備えとして清州から名古屋へ遷府を決定しました。慶長15年(1610)、前田・加藤・福島・細川・黒田等の豊臣系大名に助役を命じた天下普請で築かれました。その動員数は20万人にも達したということです。
 五重の天守閣の名古屋城天守閣は慶長17年(1610)にほぼ完成したようです。慶長19年、義直は清洲城から名古屋城に入城しました。名古屋城は、徳川義直以後、御三家(尾張・紀伊・水戸)筆頭尾張徳川家61万石の居城として、16代義宣まで代々続きました。そして明治維新を迎えます。
 明治維新後も、天守閣は本丸御殿とともに破却されることなく保存されていました。しかし、太平洋戦争の最中の昭和20年(1945)、名古屋空襲の際、焼夷弾に被弾して「大・小天守閣」、「本丸御殿」をはじめ主要の建物が焼失してしまいました。
 幸いにも焼失を免れた三つの櫓(西北・西南・東南)、三つの門(表二之門・旧二之丸東二之門・二之丸大手二之門)と、本丸御殿障壁画の大部分は、重要文化財として現在に伝えられています。昭和34年(1959)、金のシャチをいただく五層の大天守閣(48m)と小天守閣(24m)が再建されました。
 金の鯱(しゃちほこ)は火除けのまじないとして作られましたが、城主の権威の象徴となりました。「尾張名古屋は城でもつ」とか「天下の名城」とまでいわれ、名古屋のシンボルになっている名古屋城は近世大名の完成度の高い居城の典型として高い評価を受けています。


名古屋城西南隅櫓(国重文)
 名古屋城の西南隅櫓(せいなんすみやぐら)は未申(ひつじさる)櫓ともいわれ、天守と同時期の桃山時代の慶長17年(1612)頃に建てられています。 本瓦葺き、屋根2層・内部3階の櫓で、南面・西面には石落し用の落狭間をつくるため、張り出した屋根を設けています。
名古屋城西南隅櫓
 下層の屋根には南面に切妻破風(はふ)と唐破風(からはふ)、西面に入母屋破風を付けています。大正10年(1921)の暴風雨により石垣とともに崩壊しましたが、宮内省によって修理復旧されたため、鬼瓦などに菊花紋が見られます。 西南隅櫓は昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。
名古屋城西南隅櫓

名古屋城東南隅櫓(国重文)
 名古屋城の東南隅櫓(とうなんすみやぐら)は辰巳櫓(たつみやぐら)とも呼ばれます。天守や西南隅櫓と同時期の桃山時代の慶長17年(1612)頃に建てられています。 本瓦葺き、屋根2層・内部3階の櫓で、規模、構造は西南隅櫓と同じです。唐破風を下層ではなく上層屋根の東面に付けています。
名古屋城東南隅櫓
 落狭間破風になっており、創建当時の姿を伝えています。鬼瓦などに尾州葵の紋が見られます。半解体修理の際に発見された墨書により、宝永7年(1710)に修理がなされ、瓦の葺替も行われました。屋根大棟の鯱は明治43(1910)年に旧江戸城から移されたものだそうです。昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。
名古屋城東南隅櫓

名古屋城西北隅櫓(国重文)
 名古屋城の西北隅櫓(せいほくすみやぐら)は御深井丸の西北隅にあり、戌亥櫓、清洲櫓とも呼ばれています。清洲城の用材を転用して築造されたそうです。解体修理の際に発見された墨書により、本丸よりやや遅い元和5年(1619)の建築です。
名古屋城西北隅櫓
 西北隅櫓は本瓦葺き、屋根3層・内部3階の櫓で、北面と西面には千鳥破風が作られ、落狭間を備えています。 東面・南面には落狭間はなく、千鳥破風が施されています。西北隅櫓は昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。西北隅櫓の濠は薬研堀(やげんぼり)になっています。
名古屋城西北隅櫓

名古屋城表二の門(国重文)
 名古屋城の表二の門(おもてにのもん)は古くは南二之門といわれ、本丸大手となる南正門にあたります。1間1戸、本瓦葺きの、高麗門(こうらいもん)です。門柱・冠木とも鉄板張りで、木割りが太く堅固に造られています。 天守と同時期の桃山時代の慶長17年(1612)頃に建てられています。 昭和5年(1930)に国の重要文化財に指定されています。
名古屋城表二の門

名古屋城旧二之丸東二之門(国重文)
 名古屋城の旧二之丸東二之門(ひがしにのもん)は冠木門(かぶきもん)といわれ、二ノ丸の東門です。天守と同時期の桃山時代の慶長17年(1612)頃に建てられています。 本瓦葺きの高麗門で、門柱・冠木や扉などには帯鉄が打ち付けられ、用材は木割りが太く堅固に造られています。
旧二之丸東二之門
 旧二之丸東二之門は昭和38年(1963)に解体され、昭和47年(1972)に現在地に移設されました。昭和50年(1975)に国の重要文化財に指定されています。 両東二之門の両脇には同じ高さで土塀が続いています。
旧二之丸東二之門

名古屋城正門
 名古屋城の正門は明治43年(1910)に旧江戸城内の蓮池御門が移築された門でした。名古屋空襲により焼失したため、昭和34年(1959)に天守閣と共に再建されました。名古屋城にはこの正門と、正門の反対にある東門から入ることができます。
名古屋城正門

名古屋城本丸表一之門跡地
 名古屋城の本丸表一之門は南一之門と呼ばれていました。本丸大手の主門で、本丸表二之門とともに枡形を形成していました。昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまいました。現在は石垣だけが残っています。
本丸表一之門跡地

名古屋城二之丸大手二之門(国重文)
 名古屋城の二之丸大手二之門は、二之丸の西面南寄りに設けられた門です。本瓦葺きの高麗門形式で、柱や扉に鉄板を打ち付けた堅牢な造りです。天守と同時期の慶長17年(1612)頃に建てられています。両脇に接続していた土塀は失われ、内側に建っていた櫓門形式の一の門は明治時代に失われています。昭和50年(1975)に国の重要文化財に指定されています。
二之丸大手二之門

名古屋城不明門
 名古屋城の不明門は多門塀の下をくぐる埋門です。本丸北側と御深井丸をつなぐ門で、厳重に施錠され、「あかずの御門」と呼ばれたそうです。塀は外部の軒桁を忍返しにした「剣塀」です。昭和20年(1945)の空襲で焼失、昭和33年(1958)に原形の通りに再建されました。
名古屋城不明門

名古屋城天守閣
 名古屋城天守閣は大天守と小天守からなっています。桃山時代の天守閣とは異なる層塔型と呼ばれる新しい構造になっています。どっしりとした中にきめ細かな意匠が施されています。天守閣の上に載っている一対の金鯱には、慶長小判で17975両分(金量約270kg)の金が使用されたと伝えられています。
名古屋城天守閣
 五重の大天守が完成したのは慶長17年(1612)頃といわれています。徳川家康の命で、慶長15年(1610)から豊臣系大名に助役が命ぜられ天下普請で築城されました。天守台の石垣は加藤清正が築き、天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられています。初代城主徳川義直以後、御三家筆頭尾張徳川家61万石の居城として明治まで続きました。
名古屋城天守閣
 昭和20年(1945)、名古屋空襲の際、焼夷弾に被弾し焼失してしまいました。昭和34年(1959)、五層の大天守閣(48m)と小天守閣(24m)が再建され、現在に至っています。名古屋市では現在のコンクリート造りから木造に建て直すことが本格的に検討されています。
名古屋城天守閣

那古野城跡
 那古野城があったとされる名古屋城の二之丸に石碑があります。那古野城は今川義元の父である今川氏親によって、尾張進出の拠点として築かれた城です。その後、織田信長の父・信秀の城になり、信長はこの城で生まれたといわれています。弘治元年(1555)、信長は清須城に移り、一族の信光が居城しましたが、その後、廃城となりました。
那古野城跡

天守礎石
 天守礎石は旧国宝名古屋城天守の基礎土台石です。昭和20年(1945)、空襲で天守は焼失しました。昭和34年(1959)、天守閣再建のとき、ここへ移しかっての敷設状況を再現しています。
天守礎石

名古屋城跡(国特別史跡)
 名古屋城跡は昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定されています。台地端の地形と北の沼沢地を利用し、石垣、空濠、土塁を築き内部を本丸、二の丸、三の丸、西の丸、深井丸にわけ、東を大手、西を搦手としています。明治以降、陸軍の駐留、宮内省名古屋離宮となり、昭和5年(1930)宮内省から名古屋市へ離宮が下賜されました。
名古屋城跡

名古屋城二之丸庭園(国名勝)
 名古屋城の二之丸庭園は昭和28年(1953)に国の名勝に指定されています。元和年間(1615-1623)、二之丸御殿の造営にともない御殿の北側に聖堂(金声玉振閣)を中心として設けられました。享保年間(1716-1736)以後たびたび改修され枯山水回遊式庭園に改められました。
名古屋城二之丸庭園

名古屋城本丸御殿
 名古屋城の本丸御殿は天守閣の南、本丸のほぼ中央に建てられました。当初は初代尾張藩主徳川義直の住居と藩の政庁として使用されました。その後、将軍が上洛する際の寝所となりました。昭和20年(1945)、空襲で天守とともに焼失し、平成21年(2009)から復元工事が始まっています。
名古屋城本丸御殿

名古屋城清正石
 名古屋城には清正石と呼ばれる名古屋城石垣中、最大の石があります。城の中の重要な門には防備を誇示するため大きな石を組み入れていることがよくあります。この石塁は黒田長政の丁場(築城担当区域)であったので、築城の名手の清正の名がのちにつけられたと思われます。
名古屋城清正石

名古屋城・鵜の首
 名古屋城には「鵜(う)の首」と呼ばれる堀があります。堀を内側に入れ込み道幅を狭くしている部分です。本丸への侵入を阻むため、西の丸、御深井丸など郭の接するところに設けられています。名古屋城には5ヶ所、鵜の首が残されています。
名古屋城・鵜の首

名古屋城・石棺式石室
 名古屋城の天守礎石の近くに、石棺式石室があります。本来名古屋城にあったものではなく、寄贈された古墳時代後期の石室です。島根県松江市山代町にあった団原古墳のもので、出雲地方独特の横穴式石室です。本来は床石があって、手前に羨道(石室への通路)を備えていたようです。
名古屋城・石棺式石室


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