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愛知の旅       西尾市

華蔵寺
けぞうじ
愛知県西尾市岡山字山王山59
Tel 0563-35-0935


 金星山華蔵寺は花蔵寺村(現西尾市)にあったと伝えられています。吉良氏は鎌倉時代から西尾の実相寺が菩提寺でした。江戸初期に華蔵寺は吉良家の菩提寺となり、吉良家13代から18代までの墓を護っています。 
 吉良家は足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり、吉良荘に住み吉良家を称しました。室町中期には有力大名の一つとなり、室町幕府を支えました。そして、江戸期には旗本高家に列しました。 
 華蔵寺は江戸期南画の第一人者とされる池大雅の襖絵「花桜禽鳥図」、木額、書などを所蔵しています。また、本堂裏の枯滝、枯池が配された枯山水庭園は、小堀遠州流といわれ古来から著名です。
 本堂西の御影堂(みえいどう)には、元禄3年(1690)に吉良上野介義央自らが彩色したと伝えられている義央の木像(県指定文化財)があります。吉良氏で従四位上に叙せられた義定、義安、そして自像を安置しています。 
 華蔵寺には吉良義央の墓があります。吉良義冬の子で、母は酒井忠吉の娘です。徳川実紀には吉良が勤めを見習うべしと称えられています。「黄金堤と」「富好新田」は、義央が名君であった証とみられています。
 吉良上野介義央は貞亨3年(1686)、領地の水害問題を憂慮して西尾藩主土居利意と話し合いをして瀬戸の山と岡山の山間に長さ180m、高さ4mの堤防を築かせました。川の氾濫がなくなったことから領民は「黄金堤」と呼んだそうです。 
 元禄元年(1688)、義央は妻富子の重い眼の病の回復を祈り身延山久遠寺で17日間祈願しました。この時、払地に開田(新田開発)を行うと誓いました。富子が快方にむかうと、元禄3年(1690)に吉良町小山田の砂丘を開田したということです。これが「富好新田」の由来です。
 元禄15年(1703)12月14日、本所松坂町吉良邸が、大石内蔵助良雄ら赤穂浪士に討ち入られました。吉良上野介義央は物置に隠れましたが発見され、間十次郎に槍で突かれ、武林唯七に斬りつけられ絶命しました。
 義央の首は浪士らにより泉岳寺の浅野長矩の墓前に供えられました。のちに寺社奉行の指示により首は吉良家に戻され、栗崎道有に遺体と首を縫い合わせて江戸牛込の万昌院に葬られたといわれています。義央享年62歳でした。


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