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愛知の旅           岡崎市

大樹寺
だいじゅじ
愛知県岡崎市鴨田町広元5ー1
Tel 0564-21-3917


 成道山大樹寺は浄土宗のお寺で、徳川将軍家の祖松平家の菩提寺として知られる名刹です。安城城主で松平4代・松平左京亮親忠(ちかただ)が、文明7年(1475)、勢誉愚底(せいよぐてい)上人を開山として創建しました。
 親忠は応仁元年(1467)での井田野の合戦で多くの戦死者が出て悪疫が流行したことで敵味方の別なく千人塚をつくり、勢誉愚底に帰依し、熱心な念仏者になったそうです。そして大樹寺を創建したようです。
 天文3年(1534)家康の祖父に当たる7代・松平清康が七堂伽藍、多宝塔を造営しました。また3代将軍家光は寛永15年(1638)から3年かけて、大方丈、三門、総門、鐘楼などの諸堂宇を再建しました。
 安政2年(1855)、火災が発生し多宝塔、鐘楼、四脚門を除く他の堂宇がことごとく焼失しました。安政4年(1857)、13代将軍家定により再建されました。
 家康19歳の時、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれました。大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした時、大樹寺住職登誉天室上人は家康に「厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」と説き、思いとどめさせました。
 戦国の乱世の世を住みよい浄土にすることがあなたの役目であると、浄土念仏の尊さを悟したのです。以来、家康はこの8文字を座右の銘としたそうです。
 この時び家康を追う織田方の野武士たちが大樹寺を囲みました。「厭離穢土欣求浄土」の旗を立て、太刀無双の寺僧祖洞が70人力という怪力で、門の貫木を引き抜いて奮戦し敵を打ち払ったそうです。家康はこの貫木を「御貫木神」として奉祀させました。今もこの貫木は大樹寺に安置されています。
 大樹寺の三門は、三代将軍家光が寛永18年(1641)に鐘楼・総門とともに建立したもので愛知県の文化財に指定されています。正面に掲げられた「大樹寺」の額は後奈良天皇(在位1536-1557)の筆で、楼上には釈迦三尊・十六羅漢木像を安置しています。
大樹寺三門
 大樹寺の多宝塔は、天文4年(1535)松平清康が建立したもので、国の重要文化財に指定されています。多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことです。一層は方形、二層は円形の格調高い多宝塔です。大樹寺の建物の中では最も古い建物で、足利末期に造られた大変美しい塔です。
大樹寺多宝塔
 檜皮葺き(ひわだぶき)の3間多宝塔で、下層は方3間、総円柱、斗組二手先尾垂木(ますぐみふたてさきおだるき)付としています。上層は白漆喰塗りの亀腹(かめばら)上に円形の塔身を立て、四手先(よてさき)で軒をささえています。鉄製相輪(そうりん)を上げ、軒隅には風鐸(ふうたく)がつるされています。
大樹寺多宝塔
 塔内部には禅宗様の須弥檀を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置しています。内外とも素木造りで、蟇股(かえるまた)や拳鼻などの絵様および彫刻、その他の細部様式は古風で丁寧に造られていて室町時代末期の手法を示しています。
大樹寺多宝塔
 墓地の北奥には岡崎市指定史跡の松平八代墓が建てられています。三河松平氏初代親氏(ちかうじ)、泰親、信光、親忠、長親、信忠、清康、家康の父親の広忠の墓です。
松平八代墓


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