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愛知の旅           岡崎市

伊賀八幡宮
いがはちまんぐう
愛知県岡崎市伊賀町東郷中86
Tel 0564-26-2789


 伊賀八幡宮は、平安時代の康平年間(1057-1065)、源頼義が東北の安倍貞任追討の途中、勅許を得て京都の石清水八幡宮を伊賀国(三重県)に勧請したのが起こりといわれています。
 文明2年(1470)、松平4代親忠が松平家(徳川将軍家の祖)の氏神として家運長久、子孫繁栄を祈願する為、伊賀国から三州額田郡井田村へ社を移して、伊賀八幡宮とし、地名も伊賀と改めたと伝えられています。
 以来、安祥城(安城市)に居住した松平氏は、5代・長親、6代・信忠、7代・清康と歴代、松平氏の氏神として崇敬しました。特に清康(家康の祖父)は大永4年(1524)に岡崎城に移りましたが、社殿を造営し、出陣のたびにここに参拝し戦勝祈願したそうです。
 天文14年(1545)、清康は守山の陣で突然家来に切られ亡くなります。このすきに織田信秀が大軍を率いて三河に侵入し、岡崎城に迫りました。8代・広忠はわずか10歳でしたが八幡宮に祈願して迎えうちました。その時、馬に乗った武者が現れ敵陣めがけて白羽の矢を放ちました。
 すると八幡宮の森の上から黒雲が沸き嵐を呼んで、白羽の神矢が雨あられのように敵陣へ飛びました。3万あまりの織田兵はたちまち敗退したそうです。大久保彦左衛門の「三河物語」や、松平家忠の「家忠日記」にも、この不思議な出来事が記されています。
 このこと以来、松平氏の信仰はますます厚くなりました。家康は初陣の寺部城攻めの際、祈願して勝利を得て以来、大きな合戦の時には必ず参詣するのを吉例としました。永禄9年(1566)徳川の姓を称する勅許を得た際、社殿を造営、慶長16年(1611)にも造営して、現在の規模になったようです。
 寛永11年(1634)、3代将軍家光は松平信綱に代参させて社殿を造営させました。この時、相殿に東照宮を勧請させています。寛永13年(1636)には社領100石を寄進して500石とさせました。家綱、綱吉、家重、家治、家斉、家慶など歴代将軍による社殿修復は8度に及んでいます。

 伊賀八幡宮の随身門は3間1戸の楼門です。入母屋造り、前後軒破風付、檜皮葺きです。他の社殿と同様に朱塗りで彩色を施してあり、屋根入母屋の破風と縣魚(けぎょ)には青海波が浮き彫りにされています。昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮随身門
 伊賀八幡宮の拝殿は桁行5間、梁間3間、1重、入母屋造り、正面据破風付、向拝1間、檜皮葺きです。幣殿は拝殿と接続しており、桁行2間、梁間1間、1重、両下(まか)造り、檜皮葺きです。権現造りで華麗な朱塗り、随所に彩色を施してあります。昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮拝殿・幣殿
 伊賀八幡宮の本殿は3間社流造り、檜皮葺きで、1間宮殿1基が付き指定されています。他の社殿とともに寛永13年(1636)に3代将軍家光が岡崎城主・本田伊勢守忠利を奉行とし、鈴木近江守長次を棟梁として造営させました。昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮本殿
 伊賀八幡宮の本殿を囲んでいる透塀も、昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。延長43.2mあり、檜皮葺きです。連子頭に金剛柵型をめぐらす珍しい手法で造られています。
伊賀八幡宮透塀
 御供所は拝殿の左側にあります。神様にお供えする供物のうち調理をともなわないものを仕度するための建物です。桁行5間、梁間2間、1重、入母屋造り、檜皮葺きです。本殿と同時期に建立され、昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮御供所
 池の途中には石製の神橋が架かっています。2重虹梁、大瓶束、かえる股で橋骨をつくり、随所に拳鼻を飾っています。昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮神橋


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