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愛知の旅       豊田市

松平東照宮
まつだいらとうしょうぐう
愛知県豊田市松平町赤原13
Tel 0565-58-1621


 松平東照宮は、元和5年(1619)に松平太郎左衛門家9代・松平尚栄が徳川家康を祀り建立しました。もともとは松平家が信仰していた八幡宮が建てられていたといわれています。昭和40年(1965)には、初代・親氏を合祀しました。東照宮の境内は松平氏の館跡で、現存する水堀や石垣は尚栄が築いたといわれています。
 松平館は後宇多天皇に仕えた公家の在原信盛が鎌倉時代に築いたといわれ、信盛の子信重の時に姓を松平と称しました。
 室町時代初期の応永元年(1394)頃、徳阿弥という時宗の僧が松平郷の郷主松平信重の末娘の婿として養子となり、松平親氏と名を改めて松平氏を継ぎ、松平城を築城しました。
 家康は親氏から数えて9代目にあたります。親氏は松平館と松平城を拠点として17ヶ村を支配し、松平氏2代泰親(親氏の弟)は岩津城と大平城を攻略して松平氏一族の基盤を固めました。
 3代信光は三河平野の岩津城へ居城を移し、安祥城を陥れるなど、西三河を平定。4代親忠から6代信忠にかけての3代は安祥城を居城としました。7代清康はさらに大永4年(1524)岡崎城を攻め落とし、以後、岡崎城を松平氏の本城として戦国時代には三河に勢力を伸ばしていきました。
 しかし、松平清康は近臣に殺害され、わずか10歳の8代松平広忠が受け継ぎました。松平一族の支配権は弱体化し、東の駿河の今川氏、西の尾張の織田氏から攻められ、広忠もまた近臣に殺害されてしまいます。これを知った今川義元は岡崎城を手中に治めてしまいます。松平氏を継いだ竹千代(後の徳川家康)はわずか8歳でした。
 この松平郷松平家は松平太郎左衛門家とも呼ばれ、松平郷を離れることなく旗本の身分として明治維新まで続きました。境内には産湯の井戸があり、家康が岡崎城で生まれたときにこの水が運ばれたといわれています。また裸男がもみあう2月の天下祭(あまがしたのまつり)や4月の春祭りはここで開かれます。


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