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福井の旅と歴史
福井の旅    福井市

福井城址
ふくいじょうし
福井県福井市大手3


 福井城は慶長11年(1606)、徳川家康の次男・結城秀康が築城しました。以降270年間にわたり、福井藩主松平家の居城になりました。
 4層5階、高さ37mに及ぶ天守閣がありました。現在は石垣とそれを囲む堀だけが残っているだけです。城址は、本丸緑地として整備され、人々の憩いの場として親しまれています。
 結城秀康は幼名は於義丸といい天正2年(1574)徳川家康の次男として生まれました。兄・徳川信康が家康の命で自害したことから嫡男となりました。
 天正12年(1584)小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉の養子になり、養父と実父の1字ずつを取り「秀康」と名乗りました。天正18年(1590)秀康16歳の時、秀吉の意向で下総国結城城主の名門結城晴朝の元へ養子に出されました。
 関ヶ原の戦いの後、加賀藩への牽制の意味もあって福井68万石の初代藩主になりました。慶長6年(1601)5月、越前に入国した秀康は北ノ庄城の改修に着手しました。広大な城郭と五層の天守閣を建設し、九頭竜川から芝原上水を掘削して城下の飲料水を確保し、城下町の形成に努めたのでした。
結城秀康像
 慶長12年(1607)4月、病床に就いていた秀康は34歳の若さで不運な一生を終えました。その後は長男の忠直が継ぎました。これより松平姓になりました。忠直は乱行を尽し、豊後に配流となってしまいました。
 越後高田から、秀康の二男で、忠直の弟、松平忠昌が52万石で入封しました。この時地名を福井と改めたそうです。本丸跡には福の井という井戸がありこれが福井という地名になったそうです。
  忠昌の後は光通が継ぎました。松平光長の娘国姫を正室として迎えますが、国姫の母は秀忠の娘ということで側室の間の子、松平直堅を認めませんでした。直堅は危機を感じ、江戸に出奔。国姫は男子が生まれず、母と夫の板ばさみで自殺。光通もこれらの経緯を苦に、後を追って自殺しまったのです。
 遺言により後継は弟の松平昌親になりましたが早々に庶長兄の昌勝の子の甥の綱昌に家督を譲ってしまいます。綱昌は16歳と若年のうえ近臣を斬ったり、不審な点があったため領国を没収されてしまったということです。
 昌親が再び減封された25万石の藩主に返り咲き、綱吉の一字をもらって吉品となりました。吉品は、嗣子に同じく兄昌勝の六男を迎え、松平吉邦としたのでした。次ぎの宗将も昌勝の三男でした。結城秀康の血筋は次ぎの宗矩で絶えました。福井藩は藩主に恵まれず、幕府から意図的に力を弱められた感があります。


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