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福井の旅と歴史
福井の旅    大野市

越前大野城
えちぜんおおのじょう
福井県大野市城町3−109
Tel 0779-66-0234


 越前と美濃を結ぶ交通の要所であった大野の町の起源は、南北朝の初めごろ元弘年間(1332年前後)頃といわれています。大野城は大野市街の西のはずれにある海抜249mの亀山に建っているところから亀山城とも呼ばれています。
 大野城一帯は現在遊歩道が整備されていて亀山公園となっています。園内には約600本の桜があり名所になっています。大野城の南口には土井利忠を祀った柳廼社があります。
百間坂
 この柳廼社付近から城に通ずる道は「百間坂」といわれ、急な坂道です。明治時代より前は百間坂以外なかったので武士達はこの道で登城したそうです。
復元された搦手門
 天正元年(1573)朝倉氏の滅亡後、大野は一時は一向一揆によって一向宗徒の支配下となりました。天正3年(1575)織田信長は一向一揆を制圧するため、二度めの越前進攻に踏み切 りました。 
 その後、越前を平定した織田信長は軍功のあった金森長近に大野を治めさせました。当初、朝倉景鏡の居城だった戌山城に入りました。
金森長近像
 戌山城は交通の不便な場所にあったため大野盆地を見渡せる亀山に新城の築城を開始し、約4年かけ天正8年(1580)越前大野城を完成させたのでした。
 大野の城下も本格的に整備されました。南北に6筋、東西に6筋の通りで町割りをして碁盤の目のように整った城下町を形成させたのです。そして山側から武家屋敷、町家を配置して、その外側を囲むように寺町を置いたのでした。
 近長は茶器の収集家としても知られる文化人で千利休に師事していたそうです。城内には金森長近の正室であり濃姫の付き人でもあったお福の名前がついた池「お福池」があります。そこからは今も水が湧きだしているそうです。
お福池
 天正14年(1586)長近は飛騨高山へ転封となりました。青木秀以(ひでもち)を経て、信長の息子である信雄の長男織田秀雄が城主になりました。秀雄は関ヶ原の役で西軍に組したため除封になってしまいました。
 寛永元年(1624)結城秀康の三男である松平直政が5万石で入り、秀康の四男である松平直基、その弟の松平直良と入れ替わりました。直良の息子の松平直明が後を継ぎ、天和2年(1682)播磨明石へ移封になり土井利房が七代藩主になりました。
 土井利忠は桜田門外の変で殺害された大老井伊直弼の従兄にあたります。利忠は名君として知られています。藩政改革を行い、藩借財の整理をしました。藩校を設立して洋学の奨励もしました。
土井利忠像
 積極的な殖産興業も行ないました。洋式帆船「大野丸」を建造して、函館戦争では五稜郭で榎本武揚を破りました。その船で藩の物産を輸送させたのです。藩直営の販売店「大野屋」を大坂、箱館などに開設して4万石の小藩の名を全国に高らしめたのです。
 安永4年(1775)4月8日の大火で、本丸も含めた城郭や町屋の大部分を焼失してしまいました。寛政7年(1975)に再建されましたが、天守閣は再建されなかったため石垣だけの城となってしまいました。
 天守台の石垣は野面積み(のづらつみ)といわれるめずらしい積み方で石を横に寝かせて大きい石を奥の方に押し込んで積んでいくやり方です。自然石を加工せずに積んでいく天正以前の古い形式なのです。
武者登り
 天守に行く急な階段は「武者登り」といわれ石組みは、創建当時そのままで貴重なものだそうです。
 大野城は2層3階の大天守と2層2階の小天守で構成されています。創建当時は天守台には大天守、小天守と天狗書院が並ぶ連郭式天守が堂々と建っていたそうです。姫路城の模範になったともいわれています。
 明治の廃藩で城の建造物は取り壊されていましたが昭和43年(1968)に古い絵図面を元に現在の天守閣が復元されたということです。
 大野城へ通ずる遊歩道のまわりには大野市の木「ケヤキ」があります。


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