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岐阜の旅と歴史
岐阜の旅           恵那市岩村町

岩村城
いわむらじょう
岐阜県恵那市岩村町城山
Te l0573-43-3057(岩村歴史資料館)


 岩村城は源頼朝の家臣・加藤景廉が遠山庄の地頭になり文治元年(1185)頃築いたと思われます。景廉の嫡男の景朝は地名に因み遠山姓に改め、岩村遠山氏の祖となりました。以後、岩村城は長く遠山家の居城となりました。
 戦国時代になると武田、織田、徳川に隣接していたため交戦が絶えず、岩村城は大規模に拡張整備され一大要塞となりました。元亀2年(1571)、遠山景任が病死すると信長は信長の叔母で景任の正室・おつやの方を城主とし、信長5男の御坊丸を嗣子としました。これが女城主といわれる由縁です。
 元亀3年(1572)、武田側の秋山信友に攻め込まれ、窮地に陥ったおつやの方は信友と結婚し城兵の命をすくいました。天正3年(1575)、長篠の戦いで武田家が衰退すると岩村城は織田信忠により攻められ落城しました。信友・おつやの方は河川敷で逆さ磔となり処刑されたそうです。
 その後、織田家家臣・河尻秀隆が入城し、森蘭丸、森長可、森忠政、田丸直昌と短期間に城主が代入れ替わりました。慶長6年(1601)に徳川家親藩の松平家乗が岩村藩を立藩し、岩村城の麓に藩主の居館を移しました。
 2代乗寿は大坂の陣で功をあげ、寛永15年(1638)に浜松藩に移封し、丹羽氏信が2万石で入封しました。元禄15年(1702)、お家騒動で丹羽氏が移封され、小諸藩から松平乗紀が城主となり、7代乗命まで続き明治維新を迎えています。明治4年(1871)の廃藩置県により廃藩、廃城となりました。

岩村城跡(岐阜県指定史跡)
いわむらじょうせき
 岩村城は霧ケ城とも呼ばれ、岩村町の東の標高717mの城山にあります。本丸が諸藩の居城の中で最も高い位置にあり、規模や縄張りの巧みさから備中松山城、大和高取城とともに日本三大山城の一つに数えられています。
岩村城跡
 本丸に向かって登っていくと一之門、土岐門、畳橋跡や追手門などの跡などがあります。かっては正面には三重櫓、枡形に入ると大手楼門があったようです。本丸手前には折れを持つ埋門や東口門などの虎口があり、岩村城のシンボルともいえる六段に積まれた高い石垣があります。
岩村城跡
 天守閣はなく、二重の本丸櫓と納戸櫓、東西両側に多聞櫓がありました。本丸の外側に二の丸、西外側には出丸、二の丸の外側に三の丸が配されていました。奥の一段高いところにあった本丸櫓は、藩主邸ができるまで藩主が住んでいたそうです。
岩村城跡
 岩村城跡は岐阜県指定史跡に指定され、平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。また山麓の武家屋敷地に、下田歌子勉学所、歴史資料館、知新館、太鼓櫓などを整備し公園になっています。城下町である岩村町本通りは国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。
岩村城跡

岩村城一の門跡
 岩村城の一の門は大手一の門とも呼ばれました。二層の櫓門で城に向かって左側には単層の多聞櫓が構えられ、右側の石垣上も土塀で厳重に固められていました。前面左側には石塁が張り出し、死角から敵が近づかないように工夫されています。
岩村城一の門跡

岩村城土岐門跡
 岩村城の土岐門(ときもん)は二之門です。内側は馬出状の曲輪となっていました。遠山氏が土岐氏を破り、城門を奪いここに移したという伝承からこの名があります。土岐門は廃城の際に岩村町飯羽間にある徳祥寺へ移され山門となっています。
岩村城土岐門跡

岩村城畳橋跡
 岩村城の畳橋は追手門へ入る手前にある空堀にかかる橋です。敵が攻めてきたときに畳を上げるように橋板(はしいた)を取り外すことができたことから、畳橋と呼ばれています。
岩村城畳橋跡

岩村城追手門跡
 岩村城の追手門は畳橋から棟門をくぐり直角に右に曲がって櫓門に入る外枡形門(そとますがたもん)です。脇には畳橋を見下ろすように三重櫓が構えられていました。三重櫓は岩村城唯一の三層の櫓で天守の役割も果たしていました。
岩村城追手門跡

岩村城八幡曲輪跡
 岩村城の八幡曲輪(はちまんくるわ)は岩村城を築城した加藤景廉祀った八幡神社があったことから名付けられました。西方と北方の物見台として二層の遠見櫓が建てられていたようです。入口には鳥居が建てられ、中段には別当寺の薬師寺がありました。
岩村城八幡曲輪跡

岩村城霧ヶ井跡
 岩村城の霧ヶ井(きりがい)は八幡曲輪にあります。城主の食事用に使用され、日照りが続いても決して涸れなかったそうです。この井戸に蛇骨を投入すると霧が湧き出して山城を包み、敵の攻撃を阻んだという伝説が残されています。そのため岩村城は別名を「霧ヶ城」とも呼ばれたそうです。
岩村城霧ヶ井跡

岩村城六段壁
 本丸虎口の石垣は六段壁(ろくだんへき)と呼ばれ、石垣が六段積みになっています。急峻な地形に石積をする為に、工夫された石垣で、一階づつに犬走りを設けた工法で積まれ、修理や防御がしやすくなっています。当初は一段の高石垣でしたが、崩落防止のために補強を繰り返し、六段にもおよぶ石垣となったようです。東洋のマチュピチュとも呼ばれているようです。
岩村城六段壁

岩村城本丸表門跡
 岩村城の本丸表門は長局(ながつぼね)埋門(うずみもん)です。 埋門とは、城の石垣・土塀の下方に設けた小門のことをいいます。両側の石垣の上には多門櫓があり、石垣の間に櫓門を配置しています。門の内側の細長い曲輪は長局と呼ばれます。天然の地形を巧みに利用しています。
岩村城本丸表門跡

昇竜の井戸
 岩村城本丸にある昇竜の井戸は標高717mと日本一高いところにある山城の井戸です。山の頂上にあるのに、水が枯れることが決して無かったといわれています。
昇竜の井戸

岩村城本丸跡
 標高717mの山頂にある岩村城の本丸には二重の本丸櫓と納戸櫓、東西両側に多聞櫓が配されていました。本丸の外側に二の丸、西外側には出丸、二の丸の外側に三の丸が配されていました。表門、裏門ともに埋門で堅固な構えをしています。本丸櫓には城主が住んでおり、山頂にある昇竜の井戸を有していました。
岩村城本丸跡

下田歌子勉学所
 下田歌子勉学所は岩村城跡公園駐車場から岩村城本丸に通ずる遊歩道の藤坂手前にあります。実践女子大学の前身を創立し、歌人としても名高い下田歌子は岩村藩出身で、女性だったため藩校の知新館に入学ができず、藩校教授だった父親から父の書斎で多彩な学識を得ました。この勉学所を復元したものです。
下田歌子勉学所
 下田歌子生誕150周年記念として、平成15年(2003)に下田歌子勉学所敷地内に銅像が立てられました。宮中に女官として出仕した17歳の歌子は、春月とお題を賜り歌を詠みました。和歌の才能を愛でられた昭憲皇太后から歌子の名を賜ったそうです。
下田歌子勉学所

知新館(岐阜県指定文化財)
 知新館は元禄15年(1702)、小諸より入封した大給分家の松平乗紀(のりただ)が開設した美濃における最初の藩校です。昭和59年(1984)に岩村城跡公園入口の藩主邸跡に正門、釈奠の間が移築されました。岩村藩は2万石から3万石の小藩でしたが文教政策に重点をおき有能な藩士を育成しました。
知新館
 知新館は論語の「温故而知新」(ふるきをたずねて新しきを知る)から名付けられました。藩士の子弟はすべて、数え年8歳で入学し、20歳で退学が許されたそうです。乗紀は後藤松軒の門人の佐藤勘平(周軒)を招いて藩士の子弟を教育したそうです。
知新館
 正門は切妻造り、長屋門形式、木造平屋建て、桟瓦葺きです。外壁は白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁抑えになっています。釈奠の間は板間、間口1.8m、奥行90cmの聖壇があり、孔子画像軸が掲げられています。知新館正門・釈奠の間、附指定で孔子画像軸が昭和43年(1968)に岐阜県指定史跡に指定されています。
知新館

太鼓櫓
 太鼓櫓はふるさと創生の1億円によって平成2年に復元されました。城主が山頂の本丸から麓の藩主館に降り、政治の中心となりました。そして太鼓櫓が設けられ城下に時を知らせたり、非常時には打ち鳴らして領民に知らせたそうです。
太鼓櫓

岩村歴史資料館
 岩村歴史資料館は文化庁の歴史民俗資料館設置要領に基づく補助金を受け、昭和47年(1972)に開館しました。高床式、入り母屋造り、白壁の外観は岩村城をイメージさせています。岐阜県指定重要文化財の「享保岩村城絵図」「明和岩村城絵図」「佐藤一斎自讃画像」などを所蔵しています。
岩村歴史資料館

灯篭
 岩村歴史資料館の前に置かれている灯篭は文政10年(1827)に林大学頭述斎の長子・林淡斎が岩村城主・松平乗保に寄贈したものです。東京上野の東叡山にあったものを松平家が岩村町に寄付したもので、昭和40年(1965)にここに移しています。
灯篭


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