あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
岐阜の旅と歴史
岐阜の旅           恵那市明智町

日本大正村
にほんたいしょうむら
岐阜県恵那市明智町1884-3
Tel 0573-54-3944


 恵那市の明智町はかつて蚕糸を地場産業として発展していました。その頃の町並みが各所に残されています。明治末期から戦前までの歴史的建造物を中心に、生活、文化を含めて、大正時代のたたずまいを伝え、残そうとする町ぐるみの博物館が日本大正村です。
 昭和63年(1988)4月に旧恵那郡明智町の町おこしとしてオープンしました。初代村長は高峰三枝子で、平成11年(1999)に司葉子が2代目村長になり、平成27年(2015)には竹下景子が3代目村長に就任しています。
 大正浪漫館、日本大正村資料館、大正時代館だけは入場券が必要です。日本大正村の敷地内に設けられているわけではなく、町の中に大正時代の雰囲気の店舗、資料館、博物館などが散らばっています。郵便局や銀行では実際の窓口業務も行っています。

日本大正村役場(国登録文化財)
(旧明智町役場)
岐阜県恵那市明智町1884-3
Tel 0573-54-3944
 日本大正村役場は明治38年(1906)に明智町役場として建てられています。昭和32年(1957)まで役場として使用されました。その後は商工会議所や集会所などに使用され、昭和59年(1984)に日本大正村の構造物となりました。
日本大正村役場
 日本大正村の設立経緯などが展示されていて、無料休憩所にもなっています。寄棟造り、木造2階建て。桟瓦葺きで、外壁は下見板張りです。平成12年(2000)に国の登録有形文化財に登録されました。また平成27年(2015)には恵那市景観重要建造物に指定されています。
日本大正村役場

日本大正村資料館(恵那市指定文化財)
岐阜県恵那市明智町1860−7
 日本大正村資料館は濃明銀行の蔵として建設されました。明治期、この地域では養蚕業が盛んで、生糸を扱う会社が濃明銀行になりました。東棟、西棟の2つの棟があり、銀行蔵と呼ばれていました。農家から預かったり買い取ったりした繭を収納していたようです。
日本大正村資料館
 東棟は木造3階建て(一部4階)、瓦葺きで、大正7年(1918)に建てられています。西棟は木造3階建て、瓦葺きで、明治42年(1909)に建てられています。内部に手動エレベーターが備わっています。恵那市の有形文化財に指定されています。
日本大正村資料館

大正時代館
岐阜県恵那市明智町876-10
Tel 0573-54-3549
 大正時代館はその名のとおり大正時代にこだわった資料館です。「大正天皇」に関する展示、当時の暮らしを新聞やポスターなど、様々な生活用具で再現した生活展示を再現しています。
大正時代館

大正ロマン館
岐阜県恵那市明智町1304ー1
Tel 0573-54-3944
 大正ロマン館は平成6年(1994)5月に開館した瀟洒な洋風建築の博物館です。日本大正村の初代村長である高峰三枝子と、日本大正村議会の議長である元横綱栃錦の春日野清隆の記念館でもあります。建物の前にはお二人の銅像が建てられています。
 メインルームには高峰三枝子の等身大の人形が愛用した衣装を身につけています。隣りの部屋には大正時代の東京駅、帝国ホテルライト館、原宿駅などの建築物の模型が展示されています。また大正時代の楽器・楽音器具などが並んでいます。
大正ロマン館

山本芳翠記念館
やまもとほうすいきねんかん
 山本芳翠記念館は平成2年(1990)10月に開館しました。芳翠は嘉永3年(1850)に恵那郡野志村(恵那市明智町)に生まれています。黒田清輝は芳翠によって生まれたともいわれています。
山本芳翠記念館

司葉子記念館
つかさようこきねんかん
 日本大正村第2代村長として16年間勤めた司葉子の記念館です。「続青い山脈」の撮影で、恵那市に滞在したことがきっかけで、「恵那は第二のふるさと」となり地元と交流してきました。衣装や台本、写真など300点を超す資料が展示されており、楽屋なども再現されています。
司葉子記念館

うかれ横丁
 かつて飲み屋が立ち並んでいた盛り場はうかれ横丁と呼ばれていました。「中馬街道 うかれ横町」と書かれた看板は路地を跨ぐ渡り廊下に掲げられています。割烹旅館笹乃家の客が芸者を呼ぶと廊下の向こうにあった芸者置屋からかけ参じたということです。
うかれ横丁

三宅家住宅(恵那市指定文化財)
みやけけじゅうたく
岐阜県恵那市明智町1316ー1
Tel 0573-54-3944 (日本大正村事務局)
 三宅家住宅は日本大正村の大正ロマン館の奥にある茅葺きの建物です。明智町馬木地区にあったもので、平成3年(1991)に明智町が寄贈を受け、翌年現在地に移築復元したものです。主屋は元禄元年(1688)に建てられたものです。
 三宅家は江戸時代の初め、旗本の明知遠山家の家臣でした。寛文4年(1664)に帰農し馬木村に居を定めたそうです。内部は養蚕のために板の間が拡張され、三間取り(広間型)から四間取り(田の字型)に改造されています。近世中期の民家の特徴である鳥居建ての形式が残されています。


岐阜県トップページへ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu