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岐阜の旅と歴史
岐阜の旅       岐阜市

岐阜城
ぎふじょう
岐阜県岐阜市金華山天主閣18
Tel 058-263-4853


 岐阜城は標高336mの金華山山頂に築かれた城です。城跡は岐阜城跡として国の史跡に指定されています。建仁元年(1201)に鎌倉幕府執事二階堂行政によりこの場所に砦が築かれました。戦国時代には斎藤道三の居城でもありました。
 永禄10年(1567)、織田信長が、この城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、その地名も「井口」(いのくち)から「岐阜」に改めました。周の文王が岐山より興って天下を平定した故事に習ったものといわれています。
 岐阜城は安土城が築かれる10年間信長の本拠となりました。天正4年(1576)、信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督、及び、美濃、尾張の2ヶ国を譲りました。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加されました。
 天正10年(1582)、信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取りました。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると織田信孝に降伏しました。同年、清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領し、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となりました。
 天正11年(1583)一度秀吉と和睦した信孝は長島城主の滝川一益と呼応して再度挙兵ました。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城が包囲され、降伏しました。その後、信孝は切腹させられました。
 その後、池田元助が岐阜城に入城しましたが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、恒興の次男・池田輝政が城主となりました。天正19年(1591)、転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となりました。
 翌年、秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となりました。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の際に、秀信は西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末に落城しました。
 慶長6年(1601)、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。現在の城は、昭和31年(1956)、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、3層4階構造です。城内は史料展示室、楼上は展望台となっています。

 井戸谷に本丸井戸が残されています。昭和初期まで登山客の飲料水として用いられていたそうです。
 斎藤道三・織田信長の戦国時代には城の井戸として用いられていました。岐阜城の周辺には金銘水、銀銘水など古井戸が現存しています。
岐阜城本丸井戸
 岐阜城攻撃にあたり秀吉は山麓の猟師堀尾茂助等7名を従え岩戸口よりこの地に潜入し薪小屋に火を放ち大いに奮戦したということです。この時空瓢箪を槍の穂先に結びつけ城兵数名を倒したといわれ、この地が千成瓢箪発祥の地といわれています。
千成瓢箪発祥の地
 ロープウェイ山頂に、放し飼いのリスとふれあうことができるリス村があります。ここには、かつて煙硝蔵がありました。鉄砲用の火薬を保存するための蔵です。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の直前に岐阜城が徳川方の軍勢に攻められた時、火をかけられて爆発したそうです。噴き上げる炎は、大坂方の軍勢がこもっていた大垣城からもはっきり見えたといいます。
リス村
 展望台からは眼下に清流長良川、東には恵那山や木曽御岳山、北には乗鞍・日本アルプスが連なり、西には伊吹山・養老山脈、南には伊勢湾などが連なる壮大な眺望を楽しむことができます。
楼上からの眺望


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