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岐阜の旅と歴史
岐阜の旅           岐阜市

崇福寺
そうふくじ
岐阜県岐阜市長良福光2403−1
Tel 058-231-2613


 神護山崇福寺は市街地の北、長良川右岸にあります。美濃西国三十三観音霊場第14番札所で、臨済宗妙心寺派のお寺です。明徳元年(1390)、土岐満康が竜潭宗濬を招き、その師弟である太白真玄をもって開山したといわれています。
 永禄10年(1567)に織田信長が岐阜城に入ると織田家菩提寺として篤く庇護されました。本能寺の変で織田信長、信忠が亡くなると崇福寺の境内に廟所が設けられました。本堂裏に信長、信忠父子の廟所が残されています。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで岐阜城が落城した際、織田秀信(幼名・三法師)の城兵が天守閣で自刃し、血が床板に飛び散りました。本堂の天井板はその後その床板を用いて造られました。そのため崇福寺の血天井といわれています。
 江戸時代には徳川家に庇護され寺領32石が安堵されています。また有栖川宮家の祈願所にもなっています。所蔵する独秀和尚像、斎藤利匡像などが国指定重要美術品、非情成仏絵巻、絹本著色涅槃図は市指定文化財です。織田信長・信忠廟所も市の史跡に指定されています。

織田信長・信忠廟所(市指定史跡)
 信長、信忠父子の廟所は本堂裏にあり、墓の高さは139cm、巾39cm、厚さ30cm、 位牌形の石碑で縦に両分して、父子の法名が左右に並んでいます。信長は「総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士」覚霊、 信忠は「大雲院殿三品羽林高岩大禅定門 」神儀と刻んであります。 岐阜市の史跡に指定されています。
織田信長・信忠廟所

非情成仏絵巻(市指定文化財)
 非情成仏絵巻は通称「付喪神絵巻」とも呼ばれ、室町時代の作で京都の東寺から移されたと伝えられています。年末のすす払いで捨てられた古道具たちが捨てられた恨みを晴らすため妖怪となって人間を脅かしました。仏の従者の護法童子によって改心し僧になって成仏するという内容です。この絵巻は岐阜市の文化財に指定されています。
非情成仏絵巻

稲葉一鉄寄贈の梵鐘
 崇福寺には稲葉一鉄が寄贈したという梵鐘があります。この梵鐘は元和元年(1615)に改鋳されています。一鉄は土岐頼芸、斎藤氏、織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将で、美濃の曽根城主(大垣市)でした。安藤守就、氏家直元と共に西美濃三人衆と称され、その中心人物でした。
稲葉一鉄寄贈の梵鐘

関白一条兼良寄贈の中門・土塀
 崇福寺には関白一条兼良(いちじょうかねら)が寄贈した中門と土塀が残されています。兼良は当時500年来の才人といわれ、古典学、有職学の第一人者でした。応仁の乱で続く都を離れ、斎藤妙椿の招きで文明5年(1473)に美濃に下向しました。
一条兼良寄贈の中門・土塀


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