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岐阜の旅と歴史
岐阜の旅           飛騨市

高原郷土館
たかはらきょうどかん
岐阜県飛騨市神岡町城ケ丘1
Tel 0578-82-0253


 高原郷土館は城ケ丘公園にあり、高原郷の歴史を学べる3つの資料館、神岡城、旧松葉家、鉱山資料館から構成されています。神岡の街並みを見渡せるこの高台は東町城跡のあった場所で、空堀や曲輪の跡があります。郷土館では中世から現代に至るまでの高原郷の流れを学ぶことができます。
 高原郷は承久3年(1221)に居を構えた江馬氏により領され、16代360年間支配されました。江馬時盛は永禄7年(1564)に武田信玄の命で神岡城を築城しています。天正10年(1582)、江馬氏は松倉城主三木氏との戦いに敗れて滅びます。その後、金森氏が元禄5年(1692)までの110年間治めたのち幕府天領になっています。
 延宝4年(1676)、金森氏に仕えていた飛騨東方奉行・金森宗貞こと糸屋彦四郎宗貞が初めて鉱山を開きました。明治7年1874)、三井組が経営するようになり、大正2年(1913)には近代的精錬工場として、鉛・亜鉛の生産量で東洋一となった歴史があります。

神岡城
 神岡城は永禄7年(1564)、武田信玄の命を受け、家臣の山県昌景が縄張りして、江馬時盛が築城したのが始まりといわれています。天正10年(1582)、江馬氏は松倉城主三木氏との戦いに敗れて滅びます。三木氏(後に姉小路氏)の支配となりましたが、天正13年(1585)、金森長近の飛騨攻めにより三木氏は滅びました。
神岡城
 神岡城は高原郷の出城として金森家家臣山田小十郎が城主になりました。江戸時代には高山城の3支城(増島城、諏訪城、神岡城)の1つとして重要視されました。元和元年(1615)の一国一城令により旅館(陣屋)となり、元禄5年(1692)、金森氏移封で旅館も破却、廃城となりました。
神岡城
 現在は石垣や空堀、土塁などの遺構が残され、模擬天守が建てられています。これは三井金属鉱業が昭和45年(1970)に福井県の丸岡城を模して復元した、2層3階の天守閣です。
神岡城

旧松葉家住宅

 旧松葉家住宅は神岡町割石にあった民家を昭和43年(1973)に神岡城の跡地に移築保存した建物です。高原郷土館として一般公開されています。明治元年(1868)に建てられた神岡町に唯一残存する合掌造りの建物です。昭和43年(1973)に旧神岡町の重要文化財に指定され、現在は岐阜県有形民俗文化財に指定されています。
旧松葉家住宅
 間口14m、奥行10m、高さ11m、入母屋造り、茅葺きの上に銅板葺きの木造3階建て、建坪140平方mの大きな民家です。改造などの跡が殆どなく、高原川沿いの古い民家の標準的な構造を示しています。明治元年(1868)に解禁となったケヤキの良材を巧みに使用し、木割も大きく、曲線を生かした手斧梁14本を使った小屋組みは見事です。
旧松葉家住宅

鉱山資料館
 鉱山資料館では近代以降の神岡町の主要産業として、人々の暮らしを支えてきた神岡鉱山について学ぶことができます。明治7年(1874)に三井組が経営権を取得、近代化により国内初のトラックレス・マイニング法を取り入れ、大規模採掘で日本屈指の鉛・亜鉛の金属鉱山として栄え、大正2年(1913)には鉛・亜鉛の生産量が東洋一となりました。
鉱山資料館
 閉山後はその技術が「カミオカンデ」「スーパーカミオカンデ」の建設に活かされています。資料館館内では元禄時代、手掘りで採鉱していたころの道具から現代に至るまでの用具の移り変わりや、製品になるまでの採掘・選鉱・冶金の作業工程なども紹介しています。
鉱山資料館


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