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岐阜の旅と歴史
岐阜の旅           美濃市

大矢田神社
おやだじんじゃ
岐阜県美濃市大矢田
Tel 0575-33-1122


 大矢田神社は天王山の中腹にある古社です。孝霊天皇の御代(BC290-215)、建速須佐之男命(すさのうのみこと)と天若日子命(あめのわかひこのみこと)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。天若日子命は真木倉神社の祭神・天稚彦命と同じ人で喪山伝説の中心人物です。
   <喪山伝説とは天稚彦が不審な雉を矢で射ると、その矢が天から戻って来てその返し矢に当たって亡くなったという伝説です。>
 その後、大矢田神社は養老年間(712-723)に泰澄大師によって開基されたと伝えられています。
 弘治2年(1556)、戦乱で大矢田神社は灰燼に帰しました。塔頭7坊のうち、極楽坊と常泉坊の2坊だけは後に再建されました。明治3年(1870)、神仏分離・廃仏毀釈により牛頭天王を建速須佐之男命に戻し、牛頭天王社を大矢田神社に改称しました。この時、極楽坊の社僧であった真清氏が神官となったそうです。
 本殿は江戸中期の寛文12年(1672)、拝殿はそれよりも少し早く再建された豪華、華麗な社殿です。ともに国の重要文化財に指定されています。また、楼門は享保8年(1723)の再建で、美濃市指定文化財です。神仏習合が残り、たくさんの古社や祠が建てられています。

大矢田神社楼門(美濃市指定文化財)
 大矢田神社の楼門は享保8年(1723)に京都の大工谷口五兵衛と当村大工広田平兵衛によって再建された建物です。弘治2年(1556)の戦乱で大矢田神社の大半は焼失しましたがこの仁王門のみが残りました。しかし享保7年(1722)に破損して修復途中、完成間際に大工小屋からの出火で全焼、1年後やっと完成したと伝えられています。昭和44年(1969)に美濃市の有形文化財に指定されています。
大矢田神社楼門

大矢田神社太鼓橋
 大矢田神社の太鼓橋は神様が渡られる橋で、神橋とも呼ばれています。下を流れる川が結界となって、これを境に手前が俗界、向こう側が神域となります。
大矢田神社太鼓橋

大矢田神社拝殿(国重文)
 大矢田神社の拝殿は江戸中期の寛文12年(1672)以前に再建されたと思われます。間口3間、奥行3間の三間三面妻入り(つまいり)、一重、切妻造り、檜皮葺きの社殿です。妻入り拝殿は市内には他に例を見ない特徴ある形式で、尾張地方の大社の拝殿と類似しています。
大矢田神社拝殿
 拝殿の柱は杉の角柱で、斗組(ときょう)は舟肘木(ふなひじき)、妻は二重虹梁(にじゅうこうりょう)で背面の中央に蟇股(かえるまた)を入れています。内陣として円柱を立て、格天井(ごうてんじょう)を貼っています。棟札(むなふだ)は見つかりませんでしたが本殿より少し前に完成しています。
大矢田神社拝殿

大矢田神社本殿(国重文)
 大矢田神社の本殿は江戸中期の寛文12年(1672)に名古屋の大工、曽根源右衛門によって再建された社殿です。三間二面の流造りで、檜皮葺きで、切妻造り、中央に向拝を設けています。向拝の中央を唐破風(からはふ)としてその上に千鳥破風(ちどりはふ)を配しています。
大矢田神社本殿
 各所に彫刻、極彩色を施すなど派手な意匠になっています。 斗組(ときょう)は出組(でぐみ)で、建物の妻をはじめ、各部に精巧な彫刻と彩色を加えた豪華な造りです。二重虹梁(にじゅうこうりょう)の妻は特に美しく、梁を三人の力士で支えています。大矢田神社の本殿は市内第一の華麗さを誇る優秀な建築で、平成元年(1989)に国の重要文化財に指定されています。
大矢田神社本殿

楓谷のヤマモミジ樹林(国天然記念物)
 大矢田神社一帯の楓谷(かえでだに)には、約3千本のヤマモミジの原生林があり、樹齢千年以上の古木もあります。昭和5年(1930)に楓谷のヤマモミジ樹林として国の天然記念物に指定されました。また平成16年(2004)には飛騨・美濃紅葉三十三選の一つに選ばれています。
楓谷のヤマモミジ樹林


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