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岐阜の旅と歴史
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武芸八幡宮
むげはちまんぐう
岐阜県関市武芸川町八幡1712


 武芸八幡宮は養老元年(717)、泰澄(たいちょう)大師が巡錫して大碓命(おおうすのみこと)の伝説を聞き、大碓命を祭神にして八幡神社を創建したと伝えられています。後、宇多天皇が美濃に行幸された時、別当神宮寺に臣下の者を留め置き、神社に奉仕させたそうです。
 古くから武将の崇敬が厚く、観応2年(1351)森蘭丸の祖先にあたる森又太郎源泰朝が、社殿を再興しています。本殿、拝殿、五重塔、鐘楼などを建てられたそうです。その頃、不動を含め塔頭12坊が存在していたそうです。
 また、永禄10年(1567)、斎藤氏を滅ぼした織田信長は、井ノ口を岐阜と改め、稲葉山城を岐阜城としました。岐阜城からすると、武芸八幡宮は丑寅といって北東の方角に当たり、城の鬼門守護神として深く崇敬し、「下馬標」を建立しています。
 信長が安土城に移り、岐阜城には嫡子信忠が入りますが信忠も同様に庇護し、本能寺の変後に城主となった信孝も社領の安堵状を出しています。現在武芸八幡宮には、織田信長・信忠・信孝と三人の安堵状が保管されています。
 江戸時代に入ると徳川幕府から庇護され武芸谷惣社として社領9石を安堵されています。古くから神仏習合し、別当寺院として大聖寺が祭祀を司ってきました。明治初頭の神仏分離令により社号を武芸八幡宮に改め、明治6年(1873)に郷社、大正11年(1922)に県社に列しています。

武芸八幡宮御旅所
 武芸八幡宮の御旅所(おたびしょ)は第一鳥居から600m奥に建てられています。例祭である「花馬まつり」がここを中心に開かれます。この祭りは造花を背負った馬が境内に駆け込み、参拝者達がその造花を取り合うという祭りです。その造花を家の屋根に掲げると「落雷防止」や「家運隆盛」に御利益があると伝えられています。この時奉納される武芸八幡神楽は関市の無形民俗文化財に指定されています。
武芸八幡宮御旅所

武芸八幡宮太鼓橋
 武芸八幡宮の太鼓橋は元禄7年(1694)、大阪府泉南郡の石橋長右衛門によって、御嶽山から持ってきた石で造られています。神域を尊厳するための橋であり、祭礼の時に神様が御旅所まで向かわれる「渡御(とぎょ)」の時だけ使われます。大聖寺住職、法印和尚の筆書きが残されています。
武芸八幡宮太鼓橋

武芸八幡宮下馬標(県重文)
 武芸八幡宮の下馬標は高さ1.4m、幅0.39mで、太鼓橋を渡った西側に建てられています。これより奥へは馬や駕篭から降りて歩けという命令を下した標識です。永禄5年(1562)に織田信長によって建てられています。下馬標は岐阜県の重要文化財に指定されています。
武芸八幡宮下馬標

武芸八幡宮大杉(県天然記念物)
 武芸八幡宮の参道沿いに神木といわれるひときわ大きな杉があります。推定樹齢は約千年、樹高38m、目通7.5mもあり、非常に貴重な事から昭和36年(1961)に岐阜県の天然記念物に指定されています。
武芸八幡宮大杉

武芸八幡宮神門
 武芸八幡宮の神門(随身門)は永和3年(1377)に建立され、平成4年(1992)に再建された門です。間口3間奥行2間、切妻造り、銅板葺きの三間一戸の門で、左右に随神像が安置されています。「これより先は神の聖域で、邪悪なものの侵入を防ぐ」という意味が込められています。
武芸八幡宮神門

武芸八幡宮太鼓楼(関市文化財)
 武芸八幡宮の太鼓楼(鐘楼)は入母屋造り、銅板葺きで、袴腰が付いています。上層部は柱のみの吹き放しで高欄が付けられています。昔は12坊を持つ格式の高い大聖寺という大寺の鐘楼でしたが、明治の神仏分離令により廃寺になり、鐘楼だけが太鼓楼として生き残りました。武芸川町で最も古い建築物であり、関市の有形文化財でもあります。
武芸八幡宮太鼓楼

武芸八幡宮拝殿
 武芸八幡宮拝殿は間口5間、奥行3間、入母屋造り、銅板葺き、平入の木造平屋建てで、外壁は柱のみの吹き放し、腰壁は縦板張りです。観応2年(1351)森蘭丸の祖先にあたる森又太郎源泰朝が再建しました。慶応元年(1865)に焼失しましたが、加納の大工銀右衛門により再建されています。
武芸八幡宮拝殿

武芸八幡宮本殿
 武芸八幡宮本殿は間口3間、奥行2間の三間社流造り、銅板葺きの社殿です。外壁は真壁造板張りです。観応2年(1351)森蘭丸の祖先にあたる森又太郎源泰朝が再建しました。武芸谷十ヵ村「八幡・小知野・谷口・跡部・宇多院・高野・平・広見・中洞・岩佐・稲口」の惣社として崇敬されています。
武芸八幡宮本殿


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