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岐阜の旅と歴史
岐阜の旅    不破郡関ケ原町

関ヶ原古戦場
せきがはらこせんじょう
岐阜県不破郡関ケ原町
Tel 0584-43-1112 関ヶ原町地域振興課


 関ヶ原古戦場は戦国時代の総決算ともいえる徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の歴史に残る天下分け目の合戦の舞台です。徳川家康や石田三成などの陣跡には石碑が建てられています。
 慶長5年(1600)9月15日、昨夜来の雨は濃霧となり全く見通しがきかない。午前8時頃、霧が晴れ、戦いの幕は切っておとされました。
 関ヶ原合戦の午前中の戦況は、西軍は東軍を圧迫し、優勢でした。ただ西軍7万5千余のうち、参戦していたのは、石田、小西、宇喜多、大谷隊の3万5千余の軍勢のみで他は静観していたのです。
 東軍は南宮山の毛利隊に備えていた有馬・山内隊も前線に投入し、家康本隊も戦況打開のため、今の陣場野まで進出していました。戦況不利とみた家康は、かねてから内応を約束していた小早川隊に対し催促の一斉射撃を行いました。
 この威嚇により、小早川秀秋は、裏切り行為に出て、西軍、大谷隊の背後から攻撃したのでした。西軍絶対有利の陣形で臨んだ合戦でしたが 、小早川の裏切りにより、大谷、平塚隊の奮闘もむなしく敗れ去りました。
 小西隊も敗走を始め、宇喜多隊も正面から福島隊、側面から小早川隊の攻撃をうけ敗走しました。残った石田、島津隊は新手の東軍とも奮戦したが、石田隊が江州方面へ敗走。最後まで戦場に残った島津隊も、兵を集め一丸となり家康本陣前を敵中突破して、伊勢街道より堺をへて薩摩へと脱出しました。

 慶長5年(1600)石田三成は9月14日の午後7時頃、折から降りしきる雨の中、大垣城を出陣して関ヶ原へと向かい、南宮山の南から牧田(まきだ)を経由して翌15日午前5時頃に笹尾山に到着、本陣を据えました。
笹尾山石田三成陣地
 三成は、北国街道を守備するため兵6千と豊臣の兵2千を笹尾山の正面に配し、竹矢来を二町(約200m強)東に二重に田の中に囲うと、竹矢来の前面に島勝猛を、中間に蒲生郷舎を置き戦いに臨みました。三成自身は、この山頂で指揮しました。この山の前面が最大の激戦地でした。
笹尾山石田三成陣地

 竹矢来とは竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いのことです。すき間が四角になったものを角矢来といい、菱形になったものを菱矢来といいます。
敵の進入を防ぐのに利用したもので、三成はこの柵を二重にめぐらしました。
竹矢来


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