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石川の旅と歴史
石川の旅        金沢市

金沢城
かなざわじょう
石川県金沢市丸の内1ー1
Tel 076-234-3800


 金沢城は加賀百万石を築き上げた前田利家の居城です。平成13年(2001)に菱櫓、橋爪門続櫓などが復元、整備され、金沢城趾は金沢城公園として生まれ変わりました。
 文明年間(1469-1486)、ここには空堀や柵などを備えた尾山御坊(金沢御坊)と呼ばれる加賀一向宗の本願寺の本拠地があり、加賀国を支配していたそうです。
 天正8年(1580)織田信長の命により、柴田勝家らの軍勢がこの尾山御坊を攻め落とし、同年勝家の甥である佐久間盛政が入城しました。百姓一揆に備えここを修築して尾山城と改名したそうです。
 盛政は3年間城主を務め城郭の整備を進めました。城は当初、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に位置していましたが、盛政は蓮池堀を掘って台地から城地を切り離し、輪郭を築き金沢城の基礎としました。
 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家は羽柴秀吉に敗れてしまいます。尾山城主の盛政は捕らえられ処刑されてしまいました。その後、天正11年(1583)に北陸制圧に功のあった能登七尾城主であった前田利家が入城しました。
 秀吉は利家に加賀、能登、越中の3国を与えました。利家は金沢城と命名し加賀百万石の本城となったのです。これ以後14代300年前田家は存続し明治を迎えました。
 天正15年(1587)バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近は食客として前田利家のもとにいました。右近の指導のもと、本格的な城郭の建設が始まりました。
 文禄元年(1592)利家の子前田利長が再び城の改造を行ないました。天守閣は落雷によって焼失したため3階櫓が建造されました。慶長7年(1602)の火災でその櫓も焼失してしまいました。それ以後は二の丸が藩主の居所となったようです。
 明治8年(1875)陸軍第7連隊が金沢城址に置かれました。明治14年(1881)火災により石川門と三十間長屋を残して焼失してしまいました。
 明治31年(1898)陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、第2次世界大戦が終わるまで軍都金沢の象徴でした。昭和24年(1949)戦後新設された金沢大学のキャンパスとなりました。平成7年(1995)金沢大学が郊外に移り、平成13年(2001)金沢城公園として生まれ変わったのです。




百間堀
ひゃっけんぼり
 百間堀跡地です。金沢城では最も幅が広く、規模の大きい外堀です。別名蓮池堀ともいわれ金沢御堂陥落後の天正8年から11年(1580-1583)の間に造られました。寛永期に辰巳用水が城内に導水されたことで、本格的な水堀として整備されました。



石川門
いしかわもん
 兼六園と向かいあって建つ石川門です。金沢のシンボルにもなっている建築物で、国の重要文化財に指定されています。石川郡の方を向いていたので「石川門」といわれたようです。
 入口を鉄門で仕切り、内側は周りを石垣で区切った枡形(ますがた)門です。二層の菱櫓(ひしやぐら)と多門を組み合わせてできています。
 この石川門は天明8年(1788)に再建されたものです。宝暦9年(1759)の宝暦の大火で城内のほとんどの建物が焼失していたのです。この石川門の石垣は右と左で積み方が違うそうです。
 右側は「切り込みハギ」左側は「打ち込みハギ」の技法になっているそうです。同じ場所で違う積み方をしためずらしい箇所だということです。
 金沢城の瓦には鉛が使用されています。戦時には鉄砲の弾として使うことを想定していたようです。また、屋根にかかる雪の重さを軽減するためともいわれています。
 金沢城跡には石川門だけではなく三十間長屋も国の重要文化財に指定されています。三十間長屋は宝暦大火で焼失し、安政5年(1858)に再建されたものです。
 城内に金沢大学があったころ、三十間長屋は、一時、図書の保管蔵として使われていたそうです。昭和41年(1966)から43まで解体修理されました。


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