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信州長野の旅と歴史
信州の旅        飯山市

小菅神社
こすげじんじゃ
長野県飯山市瑞穂内山7103
Tel 0269-62-3133


 小菅神社は白凰年間(645-710)に役小角(えんのおづの)が創建したと伝えられています。役小角は馬頭観音の化身とされる小菅権現を主神とし、あわせて熊野・金峯山(吉野)・白山・立山・山王・走湯・戸隠の7柱の神々を加え、八所権現と称して祀ったといわれています。
 大同元年(806)、坂上田村麻呂が八所権現本宮と加耶吉利堂を再建したと伝えられています。明治の神仏分離までは、新義真言宗に属する別当寺の元隆寺大聖院が中心でした。
 室町時代の最盛期には本堂、講堂、三重塔、仁王門、鐘楼を構え、上の院16坊、中の院10坊、下の院11坊、合計37坊を持ち、100の末院、6社、5堂が立ち並び、修験、山伏、僧侶が300人もいたそうです。戸隠、飯綱とならび北信濃の3大修験場として広く信仰され栄えました。
 戦国時代には、越後上杉領になり、上杉氏から庇護され、弘治3年(1557)には上杉謙信が戦勝祈願に願文を奉納、天文年間(1532-1555)には小菅神社奥社本殿が造営されました。
 永禄4年(1561)、川中島の戦いで、武田信玄の侵攻をうけ、奥社を残し諸坊、社殿が焼失してしまいました。その後も度々戦に巻き込まれ衰退しました。慶長3年(1598)には上杉景勝が会津移封になり、元隆寺大聖院も移っていきました。
 江戸時代に入り再興され、歴代飯山藩主によって庇護されました。慶長11年(1606)、皆川氏より絵馬2面が寄進され、万治3年(11660)、松平忠倶によって社殿や堂宇の一部が再建されました。
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により元隆寺大聖院が廃寺となり、寺宝、仏式諸道具などが菩提院に移され、小菅社八所大神となりました。その後、明治33年(1900)に小菅神社と改称されました。
 小菅の里には里宮があり境内には神饌殿、神与殿、神楽殿、講堂など万治3年(1660)頃に飯山城主の松平氏によって改築された建物が残っています。平成14年(2002)に公開された映画「阿弥陀堂便り」の舞台となりました。

 小菅神社奥社は天正19年(1592)に棟梁・小野源之丞政高によって修復されています。前面は懸造りで、背面は崖に接するように造られています。桁行4間、梁間2間の一重の入母屋、妻入、銅板葺きです。室町時代の建築様式を伝えています。昭和39年(1964)に国の重要文化財に指定されています。本尊は馬頭観音木像です。
小菅神社奥社

 小菅神社里宮にある講堂は、もともとは元隆寺大聖院の中之院に属していました。元禄10年(1697)に飯山城主の松平氏によって修復されました。中には阿弥陀三尊像が安置され、7月の中旬には小菅の松子という祭りがこの場所で奉納されます。
里宮の講堂
 小菅の松子とは小菅神社の柱松柴灯神事で、昭和52年(1977)に長野県の無形民俗文化財に指定されました。7世紀から続く天下の奇祭で、修験者の験比べとその年の豊作を占ったのが始まりと伝えられます。講堂の前の広場で、雑木を藁で束ねた高さ4mの柱松2本を立てます。この2本の柱に松神子が登り、火打石と火打金を使って点火するまでの速さを競い合う神事です。
里宮の講堂

 菩提院は、もとは元隆寺大聖院の山内寺院の一つ、桜本坊でした。享保年間(1716-1735)に中興開基されたという真言豊山派の寺院であり、大日如来が本尊です。明治時代の廃仏毀釈の際、元隆寺大聖院は小菅神社となり、桜本坊が仏教寺院菩提院として残され、大聖院の仏教関係什器が移されました。
菩提院


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