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信州長野の旅と歴史
信州の旅        伊那市高遠町

満光寺
まんこうじ
長野県伊那市高遠町西高遠975
Tel 0265-94-2288


 満光寺は京都知恩院の直末寺として、天正元年(1573)浄土宗の高僧だった笈往(ぎゅうおう)上人が開山したと伝えられています。本尊は鎌倉時代の仏師快慶作といわれる阿弥陀如来像です。伊那に流された工藤祐経の子・犬房丸が守本尊として持っていた仏像だといわれています。
 元禄時代に入ると満光寺は高遠藩主となった内藤家の菩提寺となり寺運が隆盛しました。元文4年(1739)に再建された本堂は「十二間四面で、鐘楼門、その他仏具まで結構を尽くし、伊那一番の伽藍なり」と遠野藩老の葛上紀流が記したそうです。
 科の木(しなのき)を用い、長野の善光寺の伽藍配置にしたことから「伊那善光寺」「信濃の科寺」などとも呼ばれ、多数の末寺を有した大寺だったそうです。しかし、明治32年(1899)の火災により本堂はじめ多くの堂宇や寺宝、記録などが焼失してしまいました。
 本堂正面にある鐘楼門は火災を逃れた建物で延享元年(1745)に建てられました。間口4間、奥行2間半、銅板葺きの入母屋造りで、科の木を用いています。2層が鐘付堂となる楼門形式で、棟梁・菅沼定次によって造られました。昭和36年(1961)、伊那市の有形文化財に指定されています。
満光寺鐘楼門
 境内にはひとめ見るだけで極楽往生できるといわれる「極楽の松」があります。武田信玄の弟の信廉(のぶかど)が高遠城主の時、笈往上人と親交があり、高遠城内の黒松をこの地に自ら移植したそうです。
満光寺・極楽の松
 満光寺には内藤家歴代藩主の墓が建ち並んでいます。また保科左源太の墓もあります。左源太は高遠城主保科正光の養子で保科家を継ぐ予定でしたが、2代将軍秀忠の子・幸松丸(後の保科正之)が養子になって後継者となったため、悲運の人生を送りました。
満光寺・内藤家歴代の墓


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