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信州長野の旅と歴史
信州の旅        長野市松代町

象山神社
ぞうざんじんじゃ
長野県長野市松代町松代1502
Tel 026-278-2461


 象山神社は幕末の先覚者・佐久間象山を祀った神社です。 大正2年(1913)象山殉職50年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士の主唱で、神社建立の計画が進められました。昭和6年(1931)創立許可がおり、昭和13年(1938)、総桧材桃山式流造の雄大な社殿が建立されました。
 境内には象山蟄居の家である高義亭や煙雨亭があり、隣りには象山宅跡があります。高義亭には、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など多くの明治維新の志士達が訪れ、大いに時事を論じた場所だったそうです。
 佐久間象山は松代藩に生まれ、啓之助と称しました。父や鎌原桐山、活文禅師などから学問、武術を学びます。天保4年(1833)江戸に出て佐藤一斎の塾に入門、渡辺崋山、藤田東湖と親交を結びます。
 大塩平八郎の乱の起るを見て「学政意見書」を藩に提出して陽明学の弊害を述べ、朱子学の再興を主張して天保10年(1839)神田に塾を開きました。
 天保13年(1842)、藩主真田幸貫より海防掛に命ぜられ「海防八策」を上申します。江川太郎左衛門から洋式砲術を学び、蘭学も習得します。嘉永6年(1853)ペリ−来航に際しては軍議役として横浜警備に当たりました。老中阿部正弘に「急務十事」を上申して横浜開国を主張しました。
 嘉永7年(1854)、象山は門人である吉田松蔭の海外密航未遂事件に連座して罪を問われ投獄されます。44才から9年間松代に蟄居され、文久2年(1862))やっと赦面されました。
 元治元年(1864)、幕命によって上洛、公武合体論と開国論を主張しました。その開明的言動のため攘夷派志士によって京都、三条木屋町で暗殺されてしまいました。
 余年(われとし)二十以後乃ち(すなわち)匹夫も一国に繋る(かかる)あるを知り三十以後乃ち天下に繋る(かかる)あるを知り四十以後は乃ち五世界に繋る(かかる)あるを知る
 一国は松代藩、天下は日本、五世界は世界 


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