直線上に配置
信州長野の旅と歴史
信州・長野市の旅    善光寺周辺

葛山落合神社
かつらやまおちあいじんじゃ
長野県長野市入山岩戸南沖4524
Tel 026-224-5042 長野市役所観光課


 葛山落合神社は戸隠山3千坊の一つとして、創建されたようで、熊野大権現と称していたようです。寛政6年(1794)、近くの山城の葛山と、城主の名の落合をつなげて葛山落合神社と改められたそうです。
 中世、領主だった落合氏はこの神社を庇護し当地の産土神として信仰しました。神社の周りは、杉の社叢に囲まれ、大きなものは幹の周囲が4m近くあります。

 本殿は墨書から寛正6年(1465)に建てられたものです。安永6年(1777)と記された棟札もあり、修復されています。隅木入り春日造り、屋根はこけら葺きの一間社です。
葛山落合神社本殿
  高欄や脇障子はなく、柱の上に三斗を置いて実肘木で桁を支えています。向拝の頭貫が虹梁形ではなく、斗供は皿斗付の連三斗になっています。妻壁の菱格子は他にあまり例のない珍しいものです。本殿は昭和11年(1936)に国指定重要文化財に指定されています。
葛山落合神社本殿

 境内社である諏訪社社殿は室町時代後期の建物です。近くの入山清水から移築されたと伝えられています。葛山落合神社本殿と同じ、隅木入り春日造り、屋根はこけら葺きの一間社です。昭和37年(1962)に長野県県宝に指定されています。
葛山落合神社諏訪社

 葛山落合神社境内の社叢は本殿建立の際植樹されたものと推定されています。巨木も多く昭和53年(1978)に長野市指定天然記念物に指定されています。
葛山落合神社社叢



大峰城
おおみねじょう
長野県長野市長野箱清水1612
Tel 026-232-8497


 大峰城は上杉謙信と武田信玄が川中島の合戦を繰り返しているとき、武田方の旭山城の向城として上杉方が築城した山城です。この山城は、葛山城主落合備中守の家臣大峰蔵人の城といわれています。築城年は明確にはわかりませんが天文年間(1532-1554)初期と思われます。
  天文22年(1553)から5回にわたる川中島合戦で、大峰城付近の山城は幾度か争奪戦が行われました。そののち善光寺平一帯は武田方の支配下となり、大峰城も武田方のものとなりました。
 昭和37年(1962)、長野市が観光促進のために4階建て鉄筋コンクリート製の大峰城・模擬天守を建設しました。昭和56年(1981)から平成19年(2007)まで「大峰城チョウと自然の博物館」として利用されていました。 大峰城からの眺めは素晴らしく善光寺平が一望できます。



苅萱堂往生寺
かるかやどう おうじょうじ
長野県長野市大字西長野往生地1334
Tel 026-232-4349


 善光寺の西北の山腹にある往生寺には、苅萱道心の墓があり、苅萱親子が刻んだと伝えられる苅萱親子地蔵尊が祀られています。
  往生寺は「刈萱道心と石堂丸」で有名な刈萱上人(等阿法師)が開いた寺で、別名「かるかや堂」とも呼ばれています。刈萱道心の話は浄瑠璃などで知られています。堂内でその縁起を説明する絵解きは、貴重な教化風俗となっています。
 仁平2年(1152)、九州の博多、今の福岡近辺の領主であった加藤左衛門尉重という武士が、花見の宴で酒盃のなかに桜のつぼみが落下したのをきっかけに世の無常を悟り、出家を決意して比叡山にのぼり、叡空上人のもとで剃髪をし、等阿と名のりました。刈萱道心(かるかやどうしん)の誕生です。源空(法然上人)の弟子となり、黒谷(京都)において13年間、念仏に励みました。
 そして妻子がたずねて来るのをおそれ、当時、女人禁制であった高野山に身を隠しました。しかし14歳になった実子の石堂丸が父をたずねてきました。我が子であることに気づきながら、父であることを伏せて、たずねる方はこの世の人でないと告げます。
 石堂丸は、高野山のふもとの学文路宿(かむろのじゅく)に待つ母のもとに戻りましたが、長旅で病んだ母は亡くなっていました。泣く泣く母の遺骨を背にして再び高野山へのぼり、先に面会した僧をたずね、弟子入りをせがみました。刈萱はやむなく親子の名のりをしないまま弟子とし、道念と名ずけました。
 やがて、成人した石堂丸を見届けた刈萱は、親子の情愛に引かれがちな修行に終止符をうつべく、単独で信州善光寺を目指して旅立ちます。善光寺如来に七日七夜日参し、最後の修行地として、善光寺の西北6丁の山腹のこの地を授かります。長年の修行の後、建保2年(1214)に83歳で亡くなりました。

 童謡「夕焼小焼」の作曲者・草川信先生は、この寺の鐘の音を耳にした幼少の思い出をもとに作曲しました。大正12年(1923)の作です。
 鐘楼の前には作詞者・中村雨紅先生の直筆の歌碑が建てられています。
夕焼小焼の鐘



諏訪神社
長野県長野市浅川西条平間636
Tel 026-224-5042 長野市役所観光課


 諏訪神社のある浅川西条は源氏の一族の若槻氏が治めていたようです。諏訪神社は新しい村の氏神として、諏訪大社の分霊を勧請して建立されたようです。
 諏訪神社の本殿は、拝殿の後方にある安政2年(1855)に再建された覆屋の中にあります。こけら葺きの一間社流造り(高さ3.3m、幅1.1m、奥行2m)の社殿です。地元の松材で作られていて、建築当初は極彩色が用いられていたといわれています。
 棟札が残っていないので建築年代は不明ですが、随所に室町様式が見られ、室町中期、15世紀前半の建築とみられています。平成5年(1993)に長野市の有形文化財に指定されています。



善光寺
ぜんこうじ
長野県長野市元善町491
Tel 026-234-3591


 定額山善光寺は5万9000平方mの境内に、天台宗大本山の大勧進、浄土宗大本山の大本願と39の塔頭からなる大寺院です。「牛にひかれて善光寺参り」で全国的に知られ、年間約600万人もの参拝者が訪れます。
 推古天皇10年(602)に信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光が難波の堀から一光三尊の御本尊を見つけ祀りました(元善光寺)。その後皇極天皇元年(642)に、その御本尊は現在の長野市へ遷座され、善光の名をとって「善光寺」と名づけられたのでした。
 本尊は、一光三尊阿弥陀如来立像という秘仏です。中央に阿弥陀仏、右に観音像、左に勢至像が立ち、この三尊が一つの光背におさまっているところから一光三尊仏といわれ、善光寺如来型式、善光寺仏型式とも呼ばれています。御本尊の分身である前立ち本尊が、阿弥陀如来および両脇侍立像で、7年に1度御開帳されます。


仁王門(二王門)
におうもん
 現在の善光寺の仁王門は、大正7年(1918)に建立された3代目です。初代の仁王門は、宝歴2年(1752)に建立されましたが、弘化4年(1847)の地震で焼けました。
善光寺仁王門
 2代目は、元治元年(1864)再建されましたが明治24年(1891)の火災で焼失しました。掲げられている山号の扁額「定額山(じょうがくざん)」は、伏見宮貞愛親王の筆となります。 
善光寺仁王門
 仁王門の高さは13mです。左右の仁王尊や背面の三宝荒神・三面大黒天像は高村光雲・米原雲海両氏の合作による傑作です。
善光寺仁王門


大本願
だいほんがん
 大本願は浄土宗の大本山で、尼僧寺院です。代々の大本願住職、尼公上人が善光寺上人として、その伝統を継承してきました。内部は本堂の本誓殿はじめ寿光殿、奥書院、表書院、光明閣、明照殿、宝物館などあります。
大本願
 入口には水子供養のお地蔵様が建っています。ここのご住職は代々尼公上人さんがなり、皇室関係からご入山されています。江戸時代、慶長6年(1601)徳川家康によって大本願を歴代住職とし、大勧進は経理面を担当するように制度化されてきています。
大本願


仲見世から山門
 仁王門から山門までの間の約100mは、仲見世通りと呼ばれ、善光寺参道のメインストリートです。お土産物屋、そば屋、まんじゅう屋、仏具屋、信州特産品屋、写真屋、旅館など約60店ものお店がひしめきあっています。
仲見世通り
 野沢菜のソフトクリームや、リンゴのソフトクリーム、善光寺そばまんじゅう、特産のおやきなど頬張ることができます。縁起物や数珠、仏具などはもちろん、信州特産の漬物や農産品など、参拝記念の、善光寺のおみやげもたくさん売られています。
仲見世通り


六地蔵と濡れ仏
 仲見世通りを過ぎて駒返り橋を渡り、山門に向かう途中の右側に六地蔵があります。六地蔵は宝暦9年(1759)に造られましたが、大戦で供出され、現在のものは昭和29年(1954)に再興されたものです。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六の世界が、迷いの世界を輪廻する道程に分けたものです。
六地蔵
 六地蔵の横に立つ大仏地蔵(ぬれ仏)は、江戸の大火を出した八百屋お七の冥福を祈り、吉三郎が建てたといわれています。この延命地蔵は母性を感じさせる面立ちで、子供の守り神として信奉されています。
ぬれ仏


山門(三門)
さんもん
 善光寺の山門(三門)は寛延3年(1750)に落成しました。高さ20m、間口20m、奥行8mです。檜皮葺(ひわだぶき)2層入母屋造りで、国の重要文化財に指定されています。
善光寺山門
 3畳分もの大額の「善光寺」の文字は、輪王寺宮・公澄(こうちょう)法親王の筆です。この字の中に鳩が5羽いる事から、「鳩字の額」と称されています。楼上には十一面観音・文殊菩薩・四天王の像が安置されています。
善光寺山門


大勧進
だいかんじん
 大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊として、大本願の上人と共に善光寺住職を兼ねています。 本堂の万善堂はじめ重寿殿、不動堂、位牌堂、紫雲閣、宝物殿、聖天堂などがあります。大勧進の住職(貫主)はいて、貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっています。
善光寺大勧進


善光寺本堂
ぜんこうじほんどう
 現在の本堂は、宝永4年(1707年)に建立されました。江戸時代中期を代表する寺院建築として国宝に指定されています。皇極天皇の時代(642)に創建されて以来12回目の建築です。
善光寺本堂
 四方に裳階をめぐらす大伽藍は、間口24m、高さ26m、奥行54mで、日本の国宝建造物のなかで東大寺大仏殿、三十三間堂に次ぐ規模です。屋根の檜皮葺面積は、約3600平方mで日本一です。内部は正面から外陣、内陣、内々陣に分かれています。
善光寺本堂
 外陣にはびんずる尊者、一番奥の内々陣には本尊如来が奉られています。木像を撫でて、自分の病む箇所をさわると病気や痛みが治るといわれています。
善光寺本堂
 本堂の構造は上から見ると棟の形が鐘などを叩く撞木の形(T字型)になっており、撞木造りと呼ばれています。
善光寺本堂
 入口から外陣、内陣、内々陣に分かれており、Tの字の─の部分が本尊を祀る金堂(内々陣)で、│の部分が礼堂(内陣、外陣)です。
善光寺本堂
 内々陣の本尊を祠る瑠璃壇は、高床式でお戒壇巡りを可能にしています。
 本堂前の4本の柱には、弘化4年(1847)の善光寺大地震による「ねじれ」が見られ、「地震柱」と呼ばれています。
善光寺本堂


善光寺経蔵
 善光寺の経蔵は国の重要文化財に指定されています。宝暦9年(1759)に落成しています。内部は石敷きで8角形の回転式の輪蔵があり、元禄7年(1694)寄進の鉄眼黄檗版一切経が納められています。
善光寺経蔵



善光寺世尊院釈迦堂
ぜんこうじせそんいんしゃかどう
長野県長野市元善町475
Tel 026-232-4724


 世尊院は善光寺の宿坊で、仁王門をくぐり山門に向かう仲見世の手前右手の奥にあります。極彩色の煌びやかな世尊院の小御堂は釈迦堂と呼ばれています。ここには、鎌倉末期に制作された重要文化財の釈迦涅槃像が安置されています。
 釈迦涅槃像は、釈迦入滅の姿を示す銅像です。全長166cmの等身大で、左手を腰の上に伸ばし、目を閉じて、右脇を下にして、偏袒右片で頭を北にして横臥しています。戦国時代には善光寺本尊と一緒に全国各地を出開帳しました。
 善光寺本堂は昔、今の釈迦堂と東西に向かい合って建っていました。来世の阿弥陀如来を御本尊とする善光寺が西に、現世に生きた釈迦涅槃像を御本尊とする釈迦堂が東に、参道をはさんで向かい合う位置に建っていたのです。善光寺は11回もの火災に遭い、12回目の再建で現在の場所に移されたのです。
 7年に1度の善光寺の御開帳の時、大小2本の柱が松代より奉納されます。大きな柱は善光寺の前、小さな柱は釈迦堂の前に立てられ、善の綱で結ばれます。参拝者は来世の善光寺、現世の釈迦堂をお参りします。


信濃美術館



東山魁夷館




藤屋旅館
ふじやりょかん
長野県長野市大門町80
Tel 026-232-1241


 藤屋旅館は善光寺大本願近くの八幡屋礒五郎の店の隣にあります。旅館というよりホテルと呼ぶのがふさわしい大正レトロの建物です。慶応元年に創業した善光寺宿の本陣・藤屋旅館で、今ある建物は大正13年(1924)に建てられた木造3階建ての建物です。
 外観はコンクリート造りに見えますが、木造に鉄網コンクリートを貼り、2階と3階は化粧タイルが貼られています。3階窓下には欄干も設けられているアールデコ調のモダンな建物です。
 藤屋旅館の建築面積は967平方mで、玄関ポーチには円柱を採用し柱の上部には植物を模ったイオニア式風のデザインが見られます。平成9年(1997)に国登録有形文化財に指定されています。



善光寺郵便局
 62年11月16日、善光寺門前にふさわしいレトロ郵便局がオープン致しました。日本一流の和風旅館であった「五明館」のフロント部分を改修したものです。 昔ながらの丸型ポスト、昭和初期をしのばせる外観、前庭と中庭、窓格子も懐かしく、風情あるたたずまいとなっています。



北野文芸座
きたのぶんげいざ
長野県長野市西後町1625
Tel 026-233-3111


 北野文芸座は善光寺の表参道に平成6年(1994)にオープンしました。日本伝統芸能の振興と地域文化の昂揚を願い、尾上梅幸丈の助言を得て建築されました。
 東京の歌舞伎座風の外観に、日本瓦を使用した大屋根。そして、曲線が美しい「唐破風」と呼ばれる、銅板葺きの屋根を備えています。
 伝統演劇だけではなく音楽や各種公演にも用いられ、長野市の都市施設として重要な役割を果たすホールです。



セントラルスクエア
 屋外競技の表彰会場となった「セントラルスクエア」は地元経済界が出資した会社が運営する施設で、長野駅と善光寺を結ぶ中央通り沿いに地元の活性化と仕事でオリンピック競技を観戦できない地元の人々にも気軽にオリンピックムードを味わってもらえるよう建設整備されました。         大会中は17万人に及ぶ入場者がこの会場に集い、市民一体となって選手の表彰を祝いました。



長野駅




かるかや山 西光寺
かるかやさん さいこうじ
長野県長野市北石堂町1398
Tel 026-226-8436


 西光寺は苅萱(かるかや)上人と石童(いしどう)丸の話や絵解きで有名な浄土宗のお寺です。境内には親子対面の像や石童丸のお墓などもあります。
  境内には、長野県最古の芭蕉句碑や一茶句碑、刈萱塚、知恵と学問の仏をまつる園通殿六角堂、朝日山大蛇の塚、刈萱上人・石童丸親子の銅像などがあります。善光寺裏手には同じ話で有名な刈萱堂往生寺もあります。



ビックハット
 JR長野駅東口から南へ約2kmの若里にビックハットはあります。特徴ある鉄骨の骨組みを露出させ、丸い屋根の形が帽子の様に見えることからこの名がつきました。建設費は191億円かかったそうです。
 アイスホッケーのA会場として建設され、オリンピック時には北米プロリーグのドリームチームが来ると言うので盛り上がりました。 各種イベントやライブ・コンサート、冬季はアイスホッケー日本リーグの試合が開催されています。



正満寺
しょうまんじ
長野県長野市若穂綿内8585ー1
Tel 026-282-2012


 光濃山正満寺は綿内のほぼ中央にあります。創建は井上正満の菩提を弔う為開かれたのが始まりとされています。山門は江戸時代後期の数少ない楼門形式の山門として昭和53年(1978)に長野市の有形文化財に指定されています。
 山門は元禄17年(1704)に建てられています。桟瓦葺きの入母屋造りで二重繁垂木としています。壇上積み基壇上に建ち、下層部は四脚門形式です。
 上層部は4縁をめぐらした3間2面の仏殿形式です。円柱上に台輪を、組物は出組頭貫、通肘木に木鼻を付して天井を化粧屋根裏としています。中央間前後に大虹梁を渡し、上に横材を通して梵鐘を吊っています。



北野美術館
きたのびじゅつかん
長野県長野市若穂綿内7963ー2
Tel 026-282-3450


 北野美術館は昭和43年(1968)にオープンしました。長野県最大の建設会社である北野建設を経営する北野家が収集した美術品を広く公開するために建立されました。長野市中心部には別館の北野カルチュラルセンターも造られています。
 横山大観、菱田春草、上村松園、平山郁夫などの日本画、梅原龍三郎、木村荘八などの洋画といった数多くの作家の貴重な作品が展示されています。ルノワールやシャガール、ピカソ、ユトリロなど海外巨匠の名画も展示しています。



旧作新学校
きゅうさくしんがっこう
長野県長野市稲里町下氷鉋葦苅21
Tel 026-284-3028 下氷鉋小学校


 旧作新学校本館は明治16年(1883)に建てられました。長野市の学校建築では旧長野県師範学校教師館に次いで2番目に古い建物で、長野市の文化財に指定されています。現在は下氷鉋小学校内に復旧、復元されています。
 旧作新学校本館は間口8間、奥行6間の木造総2階建て、桟瓦葺きの寄棟造りです。腰壁は板張りで四方の窓を漆喰塗りにし、西洋窓をつけています。正面中央に和風の玄関を持つ擬洋風建造物です。
 昭和31年(1956)に民間工場に譲渡され、下氷鉋小学校の校庭の西南に移されました。昭和48年(1973)に校内に移築され、作新記念館となりました。その際、内部の柱や間取りなどは当初のものに復元されています。



小林家住宅
こばやしけじゅうたく
長野県長野市稲里田牧784−1


 小林家住宅は犀川沿い川中島地方の穀倉地として栄えた地区の元庄屋の邸宅です。小林家住宅の主屋、正門、北蔵(味噌蔵・文庫蔵)、燻蒸蔵は国登録有形文化財に指定されています。
 主屋は明治37年(1904)に建てられました。瓦葺き、入母屋造りの2階建ての大規模農家で、南面正面に入母屋造りの式台玄関を付けた重厚な造りです。正門は薬医門形式で、瓦葺きです。明治時代中期に建てられました。
 北蔵(味噌蔵・文庫蔵)は明治時代中期に建てられたもので、主屋の背後に位置しています。文庫蔵は桁行2間半梁間2間、味噌蔵は桁行5間梁間2間半です。燻蒸蔵は明治時代中期に建てられたもので寄棟、金属板葺きです。
 小林家住宅にはたくさんの昔の貴重な武具、漆器、焼き物、古書、地図などが展示されています。真田幸村や信之の自筆の書なども見ることができます。



長野オリンピックスタジアム
ながのおりんぴっくすたじあむ
長野県長野市篠ノ井東福寺320
Tel 026-293-4062 長野オリンピックスタジアム


 長野オリンピックスタジアムは、南長野運動公園内にある野球場です。スタンドはサクラの花をモチーフにデザインされています。平成10年(1998)、あの感動の長野冬季オリンピックで開会式と閉会式が行われた会場です。
 平成12年(2000)に野球場としてオープンしました。甲信越では一番設備の整った球場で,、外野席が天然芝になっています。
 伊藤みどりさんが点火させた聖火台が公園内にあり、モニュメントとして飾られています。



ホワイトリンク
(長野市真島総合スポーツアリーナ)

ほわいとりんく
長野県長野市真島町真島2268ー1
Tel 026-283-7977


 ホワイトリングは、平成10年(1998)に開催された長野冬季オリンピックでフィギュアスケートとショートトラックスピードスケート競技の会場となりました。宇宙船のようなドームは朝露に輝く水滴をイメージしてデザインされました。
 平成11年(1999)に長野市真島総合スポーツアリーナとして体育館に生まれ変わり、それ以降はバレーボールやバスケットボールなどで使用されています。メインアリーナは3階建ての鉄筋コンクリート造りで、建築面積は約10780平方m(延べ面積約16060平方m)あります。最高の高さ約39.7mです。



川中島古戦場
かわなかじまこせんじょう
長野県長野市小島田町1414
Tel 026-284-6541 川中島古戦場案内所


 川中島古戦場である八幡原は、永禄4年(1561)に越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄が戦った場所です。 上杉勢が妻女山に陣をとり武田勢はここ八幡原に陣を構えました。両軍合わせて3万3千の戦いは壮絶でした。上杉謙信はここ八幡原の武田信玄の本陣に切り込みました。
 不意を突かれた武田信玄は軍配で上杉謙信の太刀を受けとめたといわれています。今まさに斬り付けようとする上杉謙信、不意を突かれあわてて軍配で太刀を受けようとする武田信玄の像が建っています。信玄は軍配で謙信の太刀を受けましたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったといわれています。
 後に、この軍配を調べたところ三太刀だと思われた謙信の太刀痕は7ヶ所もあったことがわかり、この一騎打ちの跡を「三太刀七太刀」(みたちななたち)の跡と言われるようになりました。
 武田軍の原大隅がそばにあった信玄の槍を馬上の上杉謙信めがけて付き出し、はずれ槍が馬に当たり、馬は驚いて跳ねたので上杉謙信は本懐を遂げられず、武田信玄は九死に一生を得ることできたということです。


信州長野トップページへ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置

SEO [PR] カード比較  冷え対策 温泉宿 動画無料レンタルサーバー SEO