あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
信州長野の旅と歴史
信州の旅        諏訪市

温泉寺
おんせんじ
長野県諏訪市湯の脇1−21−1
Tel 0266-52-2052


 臨江山温泉寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。高島藩2代藩主・諏訪忠恒(ただつね)によって寛永17年(1640)、慈雲寺の泰嶺和尚を招聘して開山しました。諏訪家の菩提寺は長く永明寺でしたが、寛永8年(1631)、頼岳寺が創建されました。
 しかし頼岳寺が高島城から離れた場所にあったため温泉寺を菩提寺として創建したのでした。明治3年(1870)、火災により本堂など伽藍が焼失しました。高島城より能舞台と城門が移築され能舞台は本堂に、城門が山門に改修されています。
 温泉寺には長野県県宝の梵鐘をはじめ、諏訪市指定有形文化財の鉄塔、舎利塔、山門、本堂の能舞台遺構、高島藩主廟所などがあります。木造地蔵菩薩座像、一切経入経蔵、泰嶺和尚書軸、鏡板なども諏訪市指定文化財で、枝垂桜は市の天然記念物に指定されています。

温泉寺梵鐘(県宝)
 温泉寺の梵鐘は伊那郡市田村(高森町)の安養寺の梵鐘で、永享2年(1430)に鋳造された古鐘です。天正10年(1582)に織田信忠が武田勝頼を攻めた時に陣鐘として安養寺から持ち出し、上之諏訪(神宮寺)まで引いてきて捨てていった鐘で、寺創建時に温泉寺の梵鐘としたそうです。昭和61年(1986)に県宝に指定され、鐘楼には別の鐘が架けられています。
温泉寺梵鐘

温泉寺鉄塔
 温泉寺の鉄塔は多宝塔の中に納められています。諏訪大社上社本宮の御神体だった塔で、明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈により温泉寺に移されたものです。鉄塔といっても石造りの2mの石塔です。
温泉寺鉄塔
 鉄塔は当初、弘法大師により建立されたと伝えられています。鉄塔が腐朽したため、源頼朝が再興し、さらに寛永8年(1631)に高島藩2代藩主・諏訪忠恒(ただつね)が石造に造り直したと伝えられています。昭和46年(1971)に諏訪市の有形文化財に指定されています。
温泉寺多宝塔

温泉寺山門
 温泉寺の山門(三門)は明治3年(1870)の火災で焼失しました。廃藩置県と廃城令により高島城が廃城となったので城門を移築、改修したものです。江戸時代の薬医門で、諏訪市の有形文化財に指定されています。
温泉寺山門

温泉寺本堂
 温泉寺の本堂も明治3年(1870)の火災で焼失し、廃城となった高島城の能舞台を移築、改修して本堂に組み入れました。能舞台は高島藩8代・諏訪忠恕(ただみち)の時に造られたものです。本堂の能舞台遺構として諏訪市の有形文化財に指定されています。
温泉寺本堂

温泉寺経蔵
 温泉寺の経蔵は転輪蔵と呼ばれています。中には立川流初代・立川和四郎冨棟が造った八角八面の輪蔵があり、その中に黄檗板大蔵経が納められています。真心を込めてこれを一回転させると経文を読んだと同じ功徳があるとされています。
温泉寺経蔵

和泉式部の墓
 温泉寺の墓地の横の温泉寺シダレザクラの近くに五輪塔があります。これが和泉式部の墓と伝えられています。和泉式部は下諏訪宿の出身地という説があります。
和泉式部の墓

温泉寺のシダレザクラ
 温泉寺のシダレザクラは推定樹齢が300年以上という古木です。高島藩2代藩主諏訪忠恒(ただつね)が大坂の陣後に持ち帰り植えたものといわれています。諏訪市の天然記念物に指定されています。
温泉寺枝垂桜

高島藩主諏訪家墓所(国指定史跡)
 高島藩主諏訪家墓所が温泉寺にあります。墓所には2代藩主諏訪忠恒から、8代藩主諏訪忠恕(ただみち)までの7代の藩主墓と、妻や子供の墓、家臣が奉納した石灯籠が建てられています。平成29年(2017)に国の史跡に指定されました。
高島藩主諏訪家墓所


信州長野トップページへ 旅と歴史トップページへ


直線上に配置

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送