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信州長野の旅と歴史
信州の旅        諏訪市


高島藩主諏訪家墓所(国史跡)
たかしまはんしゅすわけぼしょ
長野県諏訪市湯の脇1−21−1
Tel 0266-52-2052 温泉寺


 高島藩主諏訪家墓所は温泉寺にあります。諏訪家の菩提寺は頼岳寺でしたが高島城から離れていたため、慶安2年(1649)、高島藩2代藩主・諏訪忠恒(ただつね)は、新たに温泉寺を創建し菩提寺としました。
 墓所には2代藩主・諏訪忠恒から、8代藩主・諏訪忠恕(ただみち)までの7代の藩主墓と、妻や子供の墓、家臣が奉納した石灯籠が建てられています。墓所は二段に分かれ、上段に藩主の墓と忠恒の御霊屋が建てられています。
 諏訪家は信濃国一宮諏訪大社の大祝(おおほうり)家の家柄です。中世以降は諏訪の領主として君臨しました。戦国時代、武田信玄の謀略により諏訪家惣領家は断絶し、諏訪頼重の血が入る武田勝頼が諏訪を継ぎました。信玄の後を継ぎましたが、武田は滅亡しました。後に惣領家のいとこ・諏訪頼忠が諏訪氏を復活させました。
 頼忠の長男・諏訪頼水(よりみず)は関ヶ原の戦いで功をあげ、慶長6年(1601)に諏訪の領地を復領、初代高島藩主となりました。その後、明治まで累代諏訪氏が藩主を続けました。この墓所は頼岳寺の初代藩主・諏訪頼水の墓所とともに平成29年(2017)に国の史跡に指定を受けました。

2代・諏訪忠恒仮御霊屋
 2代藩主諏訪忠恒(ただつね)の仮御霊屋が平成20年(2008)に奥の中央に建てられています。内部にある墓標の戒名の刻字部分は金泥、標身(ひょうしん)の継ぎ目は漆喰で充填されています。寛文13年(1673)3代忠晴が忠恒の17回忌に御霊屋を建立し、老朽化のため復元に備え仮御霊屋になっています。
諏訪忠恒仮御霊屋
 忠恒は初代高島藩主・諏訪頼水の長男で、寛永17年(1640)に藩主になりました。大坂夏の陣に徳川方で出陣し、天王寺の戦いなどで奮戦しました。その功により、戦後5千石の加増を受けました。父・頼水の施策を受け継ぎ、干拓や新田開発を進め領内の生産力増大に努めました。
諏訪忠恒仮御霊屋

3代・諏訪忠晴墓
 3代・諏訪忠晴(ただはる)は忠恒の長男です。明暦3年(1657)に藩主になりました。宗門改めの実施、知行制度の整備など藩の支配機構を整え、藩体制の確立に努めました。また文芸にも秀で、絵画を得意としたほか、「本朝武林小伝」などの著作があります。
3代・諏訪忠晴墓

4代・諏訪忠虎墓
 4代諏訪忠虎は忠晴の三男で、元禄8年(1695)に藩主になりました。学問に優れ、学問好きであった将軍徳川綱吉の師事を受けました。郡中法度、家中法度を出したほか、郡内の林改を行いました。俳諧に秀で「闡幽」と号しました。
4代・諏訪忠虎墓

5代・諏訪忠林墓
 5代・諏訪忠林は分家の旗本、諏訪頼篤の二男で、忠虎の実子が早世したため、養子に迎えられ、享保16年(1731)に藩主となりました。生まれつき病弱で、藩政よりも学問にのめり込み、詩人としては秀でた人物でした。
5代・諏訪忠林墓

6代・諏訪忠厚墓
 6代・諏訪忠厚は忠林の四男で宝暦13年(1763)に父の隠居を受けて家督を継ぎました。藩政を家老に任せるようになり、二之丸諏訪家と三之丸千野家の両家老家が対立しました。跡目争いまでが絡んだ御家騒動(二之丸騒動)に発展したため、責任を取り隠居しました。
6代・諏訪忠厚墓

7代・諏訪忠粛墓
 7代・諏訪忠粛(ただかた)は忠厚の長男で、御家騒動の後を受けて天明元年(1781)に藩主となりました。灌漑用水の再編をして耕地開発したり、藩政改革を行いました。享和3年(1803)に藩校・長善館を創設、藩士子弟の養育や藩医を長崎留学させ蘭学を学ばせました。
7代・諏訪忠粛墓

8代・諏訪忠恕墓
 8代・諏訪忠恕(ただみち)は忠粛の長男で文化13年(1816)に藩主になりました。松平定信の娘の烈姫を正室に迎えています。藩財政再建を目指し、検地や諏訪湖の治水工事、養蚕業奨励を実施しました。しかし凶作や江戸藩邸の焼失により藩財政は悪化、文政7年(1824)には高島藩で唯一といえる百姓一揆を引き起こされています。
8代・諏訪忠恕墓


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