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信州長野の旅と歴史
信州の旅        諏訪市

諏訪大社上社本宮
すわたいしゃかみしゃほんみや
長野県諏訪市中洲宮山1
Tel 0266-52-1919


 諏訪大社は、お諏訪様と呼ばれ、全国に1万余の御分社を持つ諏訪神社の総本社です。諏訪湖南北に2社4宮(上社本宮、上社前宮、下社秋宮、春宮)が鎮座し、日本最古の神社の一つといわれています。本殿をもたない諏訪造りと呼ばれる建築様式で建てられています。
 上社は男神の建御名方富命(たけみなかたのみこと)を、下社はその妻の女神・八坂刀売命(やさかとめのみこと)を主祭神としています。建御名方神は大国主命の第2子で古事記の大国主神の国譲りで、建御雷と力競べをした国神です。
 主に上社が狩猟神的で、下社が農耕神的だといわれています。建御名方神は農耕や勝負、家内安全、弥栄の神として崇められています。中世以降、東国第一の軍神として崇拝され、名将たちが全国各地に分霊を持ち帰ったとされています。
 孝徳天皇8年(652)、持統5年(691)、大宝3年(703)に朝廷より勅使が派遣されています。承和9年(842)には従五位下、貞観9年(867)に従一位、天慶3年(940)に正一位を賜り、延喜式神名帳には名神大社と書かれ信濃国一之宮となりました。
 神官職にあった諏訪氏は戦国時代には諏訪周辺を支配する大名になりました。武田領となると信玄、勝頼父子から崇敬されました。天正10年(1582)、織田信忠が5万の兵でと武田勝頼を攻めました。高遠城攻防で兵火は諏訪まで及び多くの社殿、社宝が灰塵に帰しました。
 徳川幕府も庇護し、高島藩主・諏訪頼水などに崇敬されました。頼水の父・頼忠は諏訪氏直系で武田氏に滅ばされた諏訪頼重の従兄弟に当たります。明治初頭の神仏分離令と廃仏毀釈により仏式が除かれ、現在に至っています。
 上社本宮の社殿は天保2年から9年にかけて再建された建物が多く、立川和四郎二代目富昌が棟梁として手掛けています。四脚門、幣殿、拝殿、左片拝殿、右片拝殿、脇片拝殿、神楽殿が国の重要文化財に指定されています。
 また、宝殿、布橋、勅使殿、五間廊、本宮入口御門は諏訪市の有形文化財に指定されています。「信玄十一軸」や、亨禄4年(1531)武田信虎と諏訪頼満が境川で和睦するにあたり、神長守矢頼真が間に立ってかき鳴らした御宝鈴などの神宝があります。社叢は県の天然記念物に指定されています。

諏訪大社上社本宮入口御門(国重文)
 諏訪大社上社本宮にある入口御門は切妻造り、銅板葺きの四脚門です。江戸時代後期の文政12年(1829)に 上社宮大工棟梁の原五左衛門親貞と弟子の藤森廣八らにより造られています。平成28年(2016)に国の重要文化財に指定されています。
入口御門

諏訪大社上社本宮摂末社遙拝所(国重文)
 上社本宮の摂末社遙拝所は間口13間、奥行2間、切妻造り、銅板葺きの建物です。昔は十三所遙拝所と呼ばれ、前宮をはじめ上の13所、中の13所、下の13所の計39所の摂社・末社の遙拝所でした。平成28年(2016)に国の重要文化財に指定されています。
摂末社遙拝所

諏訪大社上社本宮布橋(国重文)
 諏訪市指定有形文化財の諏訪大社上社本宮の布橋は文化9年(1812)に再建されました。間口37間、奥行1間、切妻造り、銅板葺きです。布橋は川を越えるものではなく、屋根付の回廊で、拝所の横まで続いています。平成28年(2016)に国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社布橋
 明治以前は一般の人は布橋を通ることはできませんでした。上社の最高位の祀官であった大祝(おおほうり)のみが通行を許されました。そのときに布を敷いたことから布橋の名がついています。現在でも御柱祭のときに神輿が白い布を敷いた上を通ることになっています。
諏訪大社上社布橋

諏訪大社上社本宮勅使殿(国重文)
 諏訪市指定有形文化財の勅使殿は、方1間、大唐破風、妻入の銅板葺きです。直線的な切妻屋根を持つ前方の建物に、破風の付いた反りのある切妻造の建物が付いています。正面の扉口以外は格子窓で、周囲に刎高欄つきの縁がまわっています。平成28年(2016)に国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社勅使殿

諏訪大社上社本宮五間廊(国重文)
 諏訪大社上社本宮にある五間廊は江戸後期の安永2年(1773)に 建てられています。正面3間、側面5間、銅板葺きの廊下様式切妻造りです。古記録には神長官・祢宜(ねぎ)大夫・権祝・擬祝・副祝の五官着座が記されています。平成28年(2016)に国の重要文化財に指定されています。
上社本宮五間廊

諏訪大社上社本宮四脚門(国重文)
 諏訪大社上社本宮の四脚門は布橋の途中から斉庭(ゆにわ)に入る所にあります。慶長19年(1614)徳川家康の寄進によって造られたといわれています。切妻造り、銅板葺きの四脚門は棟門にあたる本柱の前後に2本ずつ控柱(側柱・袖柱)をつけた形式の門で、八脚門とともに古くから造られていました。昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社四脚門

諏訪大社上社本宮神楽殿(国重文)
 平成28年(2016)に国の重要文化財に指定されている神楽殿は下檀にあります。神楽奏上の他に、拝殿の意味をもっていたようです。文政10年(1827)上桑原村の伊藤伝蔵(大隅流)によって上棟されました。間口4間、奥行3間、入母屋造り、銅板葺きで、妻を正面とし、3方に切目縁をまわし、擬宝珠高欄をつけています。
諏訪大社上社神楽殿

諏訪大社上社本宮幣拝殿(国重文)
 諏訪大社には本殿はありません。上社本宮の幣拝殿は、両翼に左右片拝殿がつくという特殊な諏訪造りで建てられています。間口1間、奥行1間、1重、向唐破風造り、銅板葺きで正面の龍の彫り物や賽銭箱近くの波の彫り物が美しく、昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社幣拝殿

諏訪大社上社本宮左片拝殿(国重文)
 諏訪大社上社本宮の左片拝殿は拝殿に向かって右側にあります。間口2間、奥行1間の建物で、天保6年(1835)に再建されました。立川和四郎2代目富昌が地元の宮大工とともに完成させました。立川流の代表的建築物ともいわれ、昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社左片拝殿

諏訪大社上社本宮右片拝殿(国重文)
 諏訪大社上社本宮の右片拝殿は拝殿に向かって左側にあります。左片拝殿と同じく間口2間、奥行1間の建物で、天保6年(1835)に再建されました。幣殿、拝殿、左片拝殿、脇片拝殿とともに立川和四郎2代目富昌が手掛け、昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社右片拝殿

諏訪大社上社本宮勅願殿(国重文)
 元禄3年(1690)に再建された勅願殿は拝所の右手に建てられています。弊拝殿が祭典や神事を行う場所であるのに対して、勅願殿は私事の祈祷を行う場所です。切妻造り 銅板葺きで御神体の守屋山に向かって建てられています。平成28年(2016)に国の重要文化財に指定されています。
諏訪大社上社勅願殿

諏訪大社御柱祭
 諏訪大社では、天下の奇祭と呼ばれている「御柱祭」があります。7年目毎の寅と申の年に盛大に行われる諏訪大社氏子のお祭りです。直径約1m、長さ約17m、重さ約12tにもなるもみの巨木を、諏訪大社氏子が総出で山から切り出し、里へ曳き、最後には上社・下社の各社殿を囲むよう、四隅に建てられます。
諏訪大社上社御柱祭
 御柱祭は、桓武天皇の御代から始まったといわれています。巨木を山から里へと曳く「山出し」は4月に、里から各社殿へと曳き建てる「里曳き」は5月に行われます。この勇壮な木落とし川越しの難事を経て、独特の木遣唄(きやりうた)を歌いながら奉仕されるのです。
諏訪大社上社御柱祭


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