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新潟の旅と歴史
新潟の旅           佐渡市

妙宣寺
みょうせんじ
新潟県佐渡市阿仏坊29
Tel 0259-55-2061


 日蓮宗佐渡3本山の一つである妙宣寺は古くから北陸道七ヶ国法華の棟梁で、寛文年中(1661-1673)、身延・池上・中山三ヶ寺の輪番所となり、明治11年(1878)独立本山と定められた名刹です。
 承久3年(1221)に佐渡へ流された順徳上皇の警護の北面の武士・遠藤為盛(のちの阿仏房日得)は、上皇が亡くなった後、文永8年(1271)に佐渡に配流された日蓮に帰依し出家して、阿仏房日得と称して、妻千日尼とともに日蓮につくしました。
 その後、阿仏房日得の子・盛綱が得度して日満と名乗り、父母の志を継いで居館を寺に改めたのが妙宣寺の始まりといわれています。現在ある妙宣寺の場所は、かっては佐渡土着の本間一族の本拠地であった竹田の雑太城(さわたじょう)でした。
 上杉景勝の家臣の直江兼続は天正17年(1589)の佐渡攻めでこの島を平定し、雑太城を廃城とし、その跡地を妙宣寺に与えてたのでした。妙宣寺には、その際兼続が奉納したと伝わる槍の穂先と木箱も残されています。京都・妙覚寺の日典聖人と親交のあった兼続は、日典を中興として一宇を造立したのが、現在の妙宣寺です。
 妙宣寺境内には国指定重要文化財で県内でただ一つの五重塔や仁王門、本堂、庫裏、祖師堂などが建立しています。本堂に向かう石橋の近くには、本間氏の居城・雑太城の空堀跡なども残っています。日蓮真筆の曼陀羅・消息文、日野資朝の写経などの寺宝を所蔵しています。

  妙宣寺五重塔は、文政8年(1825)に地元の相川の棟梁・茂左衛門とその婿養子金蔵とが、30年がかりで完成させたといわれています。高さ24.1m、初重の総間3.49mの小型の塔で、塔身部が長く、日光東照宮を模したといわれています。江戸時代に建てられた数少ない五重塔の一つで、全体の比率や五重軒の扇垂木などに時代の特色があらわれています。組物に和様と禅宗様の肘木を混用し、心柱は杉の一本造りです。昭和61年(1986)に国の重要文化財に指定されています。
妙宣寺五重塔
 妙宣寺の仁王門は延宝5年(1677)に建てられた妙宣寺最古の建造物です。朱塗りの跡を残し、かや葺きが往時をしのばせます。
妙宣寺仁王門
 妙宣寺の本堂は安政4年(1857)に祖師堂などと焼失しました。その後、本堂は文久3年(1863)に再建されました。12間(22m)四面の大堂で、佐渡では最大の建物です。江戸期本堂建築の様式を今に残しています。
妙宣寺本堂
 妙宣寺の祖師堂は本堂の左手にあります。6間(11m)4面三方縁造りです。安政4年(1857)に本堂などと焼失し、明治13年(1880)に再建されたもので、宗門最古の宗祖の木像が安置されています。この像には文永11年(1274)の銘があるということです。開山の阿仏坊日得上人と千日尼の捨身供養の木像もともに安置されています。
妙宣寺祖師堂
 妙宣寺には日野資朝の墓があります。日野資朝は公卿で後醍醐天皇に重用され、討幕計画の中枢にいた人物です。正中元年(1324)に起った後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が発覚し(正中の変)、北条高時により佐渡島へ流罪となります。7年後に元弘の変が起ると、本間氏により資朝は佐渡で処刑されました。
妙宣寺日野資朝墓
 妙宣寺の庫裏は文久2年(1862)に再建された建物です。桁行8間(14.5m)、梁間20間(36m)の大きな建物です。用材は佐渡の赤松が使われていて、8間の通し梁が6本並列通してあります。大黒柱は2尺5寸(76cm)に1尺7寸(52cm)の角材で佐渡随一です。
妙宣寺庫裏


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