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静岡の旅と歴史
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富士山本宮浅間大社
ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ
静岡県富士宮市宮町1−1
Tel 0544-27-2002


 富士山本宮浅間大社は、浅間大神(あさまのおおかみ)を祀る全国1300余りの浅間神社の総本宮です。創建は垂仁天皇3年(bc27)、富士山の噴火を鎮めるため、勅命により富士山の分霊である浅間大神を勧請したのが始まりと伝えられています。
 大同元年(806)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が富士宮市の現在の場所に社殿を建立し、浅間大神を富士山麓から現在地に遷座し、社殿を造営しています。
 朝廷からも崇敬され、仁寿3年(853)に編纂された文徳実録では従三位に列しています。貞観元年(859)には正三位、延喜7年(907)には従二位、永治元年(1141)には正一位を授けられています。
 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社として記載され、その後、駿河国一宮として駿河国の祭祀を司っています。
 文治4年(1188)、源頼朝は社領を寄進し、建久4年(1193)の巻狩の際には流鏑馬を奉納しています。貞応2年(1223)執権北条義時は社殿造営を行っています。室町時代に入ると守護職今川家に、戦国時代には武田信玄、勝頼などに庇護されました。
 豊臣秀吉は社領1070石を寄進、徳川家康は境内の社殿30余棟を再建しました。寛永18年(1642)、3代将軍徳川家光は朱印領として1129石3斗6升を安堵し、以後歴代将軍がこれを追認しました。江戸中期には富士講などができ繁栄しました。富士山本宮浅間大社を参拝した後、富士山登拝することが流行りました。
 明治の神仏分離令により仏式が廃されました。清泰院、閼伽井坊、乗蓮坊、金蔵坊、法泉坊、蓮蔵坊、大圓坊、大蓮寺などは神社又は神社関連施設へと姿を変えました。明治4年(1871)に国幣中社に列し、明治29年(1896)に官幣大社に昇格しました。
 富士山本宮浅間大社は富士山8合目より山頂までの約385万平方mの土地を境内としています。「本宮境内」に対して、富士山頂部(8合目以上)は「奥宮境内」と呼ばれています。

 本殿は慶長9年(1604)、徳川家康が造営したもので浅間造りと呼ばれる2重楼閣造りになっています。桁行5間、梁間4間の社殿の上に三間社流造り、三間向拝付きの社殿を重層させています。 ともに桧皮葺きです。国の重要文化財に指定されています。
富士山本宮浅間大社本殿
 幣殿・拝殿は本殿と同じく家康の造営です。屋根は本殿と同じ檜皮葺きです。外側・内側は丹塗で、極彩色は蟇股・虹梁彫刻などに限られています。幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ「作合」と呼ばれた部分です。拝殿は、間口5間、奥行5間で、床が幣殿より2段高くなっています。正面が入母屋造り、背面が切妻造りです。正面に向拝が1間出ています。正面に扉があり、正面左右には濡縁を巡らせてあります。県の文化財に指定されています。
拝殿・幣殿
 楼門は、間口4間、奥行2間半、高さ6間半の2階入母屋造りです。正面・左右脇に扉が付いています。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の筆で文政2年(1819)に掲げられました。楼門は県の文化財に指定されています。
楼門
 東脇門を出ると平安朝の歌人平兼盛が「つかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた湧玉池があります。この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、特別天然記念物に指定されています。
湧玉池
 湧玉池の清水の湧出する水源の岩上には朱塗優雅な水屋神社があります。富士山登山者はこの霊水に禊ぎをして登山する古くからの習わしがあります。
水屋神社
 表参道の道のど真ん中に鉾立石と呼ばれる平たい石があります。4月と11月の大祭で山宮神幸が行なわれ、その時に神鉾をこの石の上に立てて休むところです。
鉾立石
 富士山本宮浅間大社の境内には源頼朝の像が建てられています。建久4年(1193)頼朝は富士の裾野で巻狩をした際に武運長久・天下泰平を祈って流鏑馬を奉納しました。このことから毎年5月上旬に伝統行事の「流鏑馬祭り」を行っています。
源頼朝の像


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