あなたは 番目の訪問者です。(ogino作成共通カウント)
直線上に配置
静岡の旅と歴史
静岡の旅       伊豆の国市

江川邸
えがわてい
静岡県伊豆の国市韮山韮山1
Tel 055-940-2200


 江川邸は韮山の代官であった江川氏の邸宅です。江川氏は清和源氏の出で、大和の国に住んで宇野氏と称しました。保元の乱(1156)後、伊豆に移り、源頼朝によって江川庄一円を領しました。その後、豪族として周囲を支配し、江戸時代には韮山代官を務め世襲しました。
 幕末の英傑と呼ばれる江川太郎左衛門英龍(坦庵)は反射炉を建設した天才的な技術者です。この江川邸は英龍の暮らした家であり、韮山代官所でもありました。主屋のほか、表門、書院、仏間、東蔵、肥料蔵、武器庫が国の重要文化財に指定されています。(書院、仏間、東蔵は普段は公開されていません)


江川邸枡形
 江川邸は戦国時代は江川曲輪と呼ばれました。周囲には堀切が巡らされ、土塁の内側は桝形と呼ばれる広場になっています。戦国時代から近世にかけての城郭で用いられた出入り口の一形態です。江戸時代に代官が外出する時、人数を揃えるのに使われたそうです。
江川邸枡形

江川邸表門(国重文)
 江川邸の表門は切妻造り、桟瓦葺きの三間一戸の薬医門です。前後4本の柱のうち、前方の2本はやや太い本柱で、後方の2本は中心よりも奥に建てられています。江戸時代末期の安政年間(1854-1859)に再建されたと思われます。平成5年(1993)に国の重要文化財に指定されています。
江川邸表門

江川邸主屋(国重文)
 江川邸の主屋は高さ12m、間口25.4m、奥行18.8m、単層、入母屋造り、銅板葺きで、東面に玄関が付いています。屋根は元々は茅葺きだった屋根を直しています。江戸時代前期の元和・寛永・正保・慶安・承応・明暦・万治年間(1615-1660)に建てられています。昭和33年(:1958)に国の重要文化財に指定されています。
江川邸主屋
 広さ50坪の土間に足を踏み入れ、上を見上げると、桁に梁、束柱、束柱同士を繋ぐ無数の貫、その奥には茅を支える垂木などが丸見えになっています。屋根は大きくても、出来るだけ軽く組み、風通しを良くし、揺れにも強い和小屋組みの工法で、力学的にも考究された建築です。
江川邸主屋

江川邸生き柱
 江川邸の生き柱は主屋の土間の一角にあります。建築以前からあった欅を切り倒さず、そのまま柱として利用したようです。江川氏の歴史と伝統を物語る存在として長年にわたって大切にされてきました。昭和35年(1960)の調査で実際には根はなかったと判明しました。
江川邸生き柱

江川邸西蔵(国重文)
 江川邸の西蔵は肥料蔵とも、 正面から見ると将棋の駒の形をしていることから駒蔵とも呼ばれています。間口5.6m、奥行4.5m、2階建て、寄棟造り、妻入、茅葺きの土蔵造りの建物で、正面に庇が付けられています。江戸時代末期の享和から明治年間(1801-1900)に建てられたと思われます。平成5年(1993)に国の重要文化財に指定されています。
江川邸西蔵

江川邸武器庫(国重文)
 江川邸の武器庫は間口5.4m、奥行3.7m、切妻造り、妻入、桟瓦葺きで、正面に庇があります。江戸時代末期の享和から明治年間(1801-1900)に建てられたと思われます。小銃や弾丸、大砲の砲弾のほか、火薬の原料になる硝石や松ヤニなども保管されていたようです。平成5年(1993)に国の重要文化財に指定されています。
江川邸武器庫

江川邸北米蔵・南米蔵
 江川邸の北米蔵と南米蔵は西蔵と武器庫の間に2棟並んで建てられています。南米蔵は明治25年(1892)、北米蔵は大正8年(1919)の建築です。ほとんどが板張りの壁ですが、上部には白漆喰が使われ、瓦屋根との間には風通しの隙間が見られます。内部を展示スペースとして公開しています。
江川邸北米蔵・南米蔵

江川邸パン祖の碑
 江川邸にはパン祖の碑があります。徳富蘇峰の筆で「パン租江川坦庵先生邸」と記されています。江川太郎左衛門英龍(坦庵)が、天保13年(1842)頃、兵糧としてパンを製造しようと考え、江川邸内にパン窯を造ってパンを焼かせたことを記念して建てられたそうです。
江川邸パン祖の碑

江川邸裏門
 江川邸の裏門の門扉の格子には穴や傷が残されています。豊臣秀吉軍の韮山城攻めの時にできた弾丸や矢の痕といわれています。裏門自体は文政6年(1823)に再建された門です。寛政4年(1792)、視察に訪れた松平定信がこの裏門から見た富士山の美しさに感嘆したという逸話が残されています。
江川邸裏門


静岡県トップページへ  旅と歴史トップページへ


直線上に配置

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送