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静岡の旅と歴史
静岡の旅       下田市

下田港・ペリー上陸の碑
しもだこう・ぺりーじょうりくのひ
静岡県下田市3
Tel 0558-22-1531 下田市観光協会


 伊豆半島の南端に近い下田港は、昔から江戸への回船の重要な寄港港として栄えていました。大型帆船の「千石船」が江戸や大阪と全国各地を結び、人や物を運んでいました。
 帆船全盛期、海上交通の中継地点であった下田は、この「千石船」が風待ちをするための重要な場所でした。日本各地の「千石船」が、黒潮に乗って駿河湾に入り、一日数十隻も下田の港で風を待っていたそうです。
 嘉永6年(1853)にアメリカ合衆国の海軍所属の東インド艦隊艦船が、日本の江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航しました。ペリーは開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡しました。
 幕府は将軍が病気であることを理由に、返答に1年の猶予を要求し、ペリーは1年後に再来航すると告げて去りました。嘉永7年(1854)、ペリーは半年で再び浦賀に来航しました。
 協議の末、幕府は、アメリカの開国要求を受け入れました。ペリーは横浜に上陸し、日米和親条約(神奈川条約)が締結されました。その後、下田の了仙寺へ交渉の場を移し、下田条約が締結されました。
 下田港は函館港とともに日本最初の開港地となり、外国船へ薪炭・食糧・水を供給する補給基地港となったのです。
 吉田松陰は藩の枠を越え、世界の情勢を見極めるために、海外密航を決意していました。金子重輔とペリー搭乗の旗艦ポーハタン号に乗りつけ、渡航を懇願しました。
 しかし、海外渡航は国禁であり、拒絶されました。松陰らは自首して捕らえられ、「平滑(ひらなめ)の獄」に拘禁されました。その後、安政6年(1859)、安政の大獄で処刑されてしまいました。
 ペリー上陸の碑が下田港の一角に建てられています。嘉永7年(1854)にアメリカ艦隊を率いて、下田に来航したペリー提督が第一歩を印した地です。ペリー提督の胸像と錨が設置されています。胸像は下田条約調印の地、了仙寺の方向を向いています。
 安政6年(1859)の日米修好通商条約により神奈川港などが開港したことにより、開国という下田港の役割は終わりを告げました。


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