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静岡の旅と歴史
静岡の旅       静岡市葵区

臨済寺
りんざいじ
静岡県静岡市葵区大岩町7−1
Tel 054-245-2740


 大龍山臨済寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、妙心寺派の専門道場です。駿河の戦国大名・今川氏の菩提寺でもあり、徳川家康が今川家の人質となっていた幼少の頃、学問を学んだことで知られるお寺です。
 臨済寺の前身である善得院は、今川氏親が出家した子・栴岳承芳(後の今川義元)のために、母・北川殿(今川義忠・室、伊勢宗瑞・姉)の別邸跡に享禄年間(1528-1531)に建立したお寺です。
 天文5年(1536)、義元の兄である今川氏輝が24歳の若さで急逝しました。今川氏の家督をめぐって「花倉の乱」が起こり、弟の玄広恵探を退けて世俗した今川義元が跡を継ぎました。同年、氏輝を善得院に葬むり、法名の臨済寺殿用山玄公の文字をとって「臨済寺」と改めました。
 この時に、京都妙心寺の大休宗休(だいきゅうそうきゅう)を招いて開山し、弟子の太源崇孚(たいげんすうふ)雪斎(せっさい)が2世となって住持しました。この時今川氏4代の寺々は臨済寺に統合されました。そのため氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されています。
 永禄11年(1568)、今川・北条との甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄は駿河に侵攻しました。駿府城下に火が懸けられ、臨済寺も灰燼に帰しました。
 天正10年(1582)の武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康が正親町天皇の勅命によって復興・整備を進め、現在の本堂などを再建し、盛時の姿を取り戻しました。
 雪斎は、臨済寺を駿河の勅願寺に昇格させ、「歴代序略」臨済寺雪斎書院刊を出版し、臨済宗を広げ、寺勢は大いに興隆しました。さらに雪斎は、住職でありながら、戦国大名の今川氏の軍師として、義元の下で政治・軍事・外交に秀でた手腕を発揮して義元を補佐しました。
 徳川家康は駿府での今川氏の人質時代、この臨済寺の「お手習いの間」で幼年時代を過ごし、雪斎から多くのことを学んだのです。臨済寺は明治の神仏分離で静岡浅間神社の摩利支天社にあった摩利支天像を譲り受け安置しています。この像は徳川家康の念持仏でした。

 臨済寺の山門には神仏分離により浅間神社から移された仁王像が安置されています。江戸時代にはこの場所には中門として四脚門がありましたが、安政の大地震で被害を受けました。仁王像を納めるにふさわしい山門をと、明治時代に建立されました。「大龍山」の額は、徳川慶喜の揮毫によるものです。
臨済寺山門
 臨済寺の本堂(大方丈)は桁行11間、梁間8間半南西隅に唐破風の玄関がある建物で国の重要文化財に指定されています。江戸時代前期の建立で、入母屋造り、こけら葺きで、方丈形式の平面をもつ本堂です。駿河の勅願寺であったことを示す「勅東海最初禅林」の額が掲げられています。本堂裏の庭園は国の名勝に指定されています。
臨済寺本堂


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