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静岡の旅と歴史
静岡の旅       静岡市葵区

静岡浅間神社
しずおかせんげんじんじ
静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町102ー1
Tel 054-245-1820


 賎機山(しずはたやま)の麓にある静岡浅間神社は神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の総称です。通称おせんげんさまと呼ばれ、3社はいずれも独立の神社として祭祀を執り行っています。
 3社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきました。明治21年(1888)、3社別々に国幣小社に昇格しました。境内には麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社があります。
 また、神部神社と浅間神社共通の本殿、2棟の中門、3棟の透塀、大拝殿、舞殿、楼門、2棟の回廊、総門、神厩舎、宝蔵などが建立されていて、他の各々の神社の本殿、中門、透塀などほとんどが国の重要文化財に指定され、東海の日光といわれています。
 静岡浅間神社は浅間神社が富士宮の浅間神社を勧請した新宮でしたが、平安時代の末頃には3社を合わせて惣社といわれたそうです。鎮座以来、朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川など各氏から庇護、寄進、社領の安堵がなされてきました。
 徳川家康は、弘治元年(1555)、14歳の時、ここで元服式を行いました。賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するため、勝利の際は壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で社殿を焼き払いました。そして、天正10年(1582)現在と同じ規模の社殿を建造しました。
 現在の社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された壮麗なものです。文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたもので、26棟が国の重要文化財に指定されています。繊細な花鳥霊獣は信州諏訪の立川和四郎富昌ほか門弟達によって彫られたものです。
 駿府藩主・徳川秀忠の第2子・徳川忠長は、この賤機山で猿狩りを行いました。この神社の神の使いである猿を狩ったことで、兄である将軍・徳川家光の逆鱗に触れました。寛永8年(1631) 乱心との理由で、改易と甲府幽閉を命じられ、翌年、高崎城で自刃させられてしまいました。


神部神社
 神部神社(かんべじんじゃ)は、駿河国開拓の祖神大己貴命(おおなむちのみこと)を祀っています。他にも瓊々杵命、栲幡千々姫命、東照宮を祀っています。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされています。
 第10代崇神天皇代(約2100年前)の鎮座とも伝えられ登呂遺跡の時代からこの地方ではもっとも古い神社であり延喜式内社です。少彦名神社の祭神とともに、この国土の経営にあたられました。その神徳により、延命長寿・縁結び・除災招福の神として信仰されています。


浅間神社
 浅間神社は、木之花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)を祀っています。延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきました。
 木之花咲耶姫命は女神で、木の花が舞うように美しい女性として、古事記にも登場しています。火の神または山を鎮める水徳の神として、富士山に鎮座して、広く東日本一帯を守護しており、家庭円満・安産・火難消除などの神として崇められています。


神部神社・浅間神社
 神部神社と浅間神社の総門です。桁行12.4m、梁間10.9m、2階建てで切妻造り、鉄板葺きです。文化14年((1817)に建てられた門で、国の重要文化財に指定されています。
総門
 楼門は桁行3間、梁間3間、入母屋造りです。文化12年(1815)に起工され翌年、竣工されています。総漆塗りで彫物には「水飲み龍」「虎の子渡し」などがあります。2層部分に「當國總社・冨士新宮」の扁額が揚げられています。楼門・回廊ともに国の重要文化財に指定されています。
楼門
 楼門上にある龍の彫刻は、左甚五郎作と伝えられるものです。安永2年(1773)の安永の火災の時、池に下りて水を吐いて御殿にかけたといわれています。「水飲み龍」と呼ばれ、伝説は浅間神社の七不思議に数えられています。
水飲み龍
 大拝殿前に建つ舞殿 (ぶでん)は文化14年(1817)に起工され文政3年(1820)に竣工されました。桁行16m、梁間16m、切妻造り、妻入の建物です。静岡浅間神社の社殿の中で唯一の素木造りです。信州諏訪の立川流の彫刻も素木で彫られています。舞殿も国の重要文化財に指定されています。
舞殿 (ぶでん)
 風姿花伝によれば能楽の始祖観阿弥は、今川氏の氏神である静岡浅間神社に能を奉納し、この地で亡くなったそうです。舞殿は観阿弥終焉の舞台としても知られ、境内には26世宗家観世清和氏による顕彰碑が建てられています。
舞殿 (ぶでん)
 大拝殿は神部神社と浅間神社の楼閣造の拝殿です。浅間造りの代表的なもので、文化2年(1805)に起工され、文化11年(1814)に竣工されています。高さは25mあり、木造神社建築としては、出雲大社本殿(約24メートル)より高く、まさに日本一の威容を誇っています。
大拝殿
 内部は132畳敷の広さがあります。天井は十間の合天井となっています。その各間に狩野栄信・狩野寛信の「八方睨みの龍」「迦陵頻伽」「天人」などの天井絵が描かれています。大拝殿は国の重要文化財に指定されています。
大拝殿
 大拝殿の背後には本殿が建てられています。向かって左に浅間神社の中門、右に神部神社の中門があり、その奥が本殿です。本殿・中門は文化10年(1813)に建立されました。本殿は比翼三間社流造り、本瓦形銅板葺きです。2棟の中門は桁行1間、梁間1間、向唐門、本瓦形銅板葺きです。本殿、中門とも国の重要文化財に指定されています。
本殿・中門
 神厩舎(しんきゅうしゃ)です。神厩とは馬屋のことで、神に仕える馬を飼う建物のことです。馬は神の使いとされ、日光東照宮や伊勢神宮などでは本物の馬を飼っています万延2年(1861)に建てられた住吉造り、檜皮葺きの厩舎で、国の重要文化財に指定されています。
神厩舎
  神部神社と浅間神社の宝蔵です。嘉永7年(1854)に建てられた宝蔵は桁行3間、梁間2間、袴腰付、入母屋造り、本瓦葺きです。平成11年2月に神廐舎とともに国の重要文化財に指定されました。
宝蔵
 神部神社と浅間神社の回廊は国の重要文化財に指定されています。南回廊と北回廊があり、文化10年(1813)に完成しています。
回廊
 神部神社と浅間神社の透塀(すきべい)は国の重要文化財に指定されています。南透塀、中透塀、北透塀があります。文化10年(1813)に完成しています。透塀は社殿周囲を囲む塀のことで、中ほどを連子(れんじ)・透かし彫りなどにして、内部が透けて見えるようにしています。
透塀


玉鉾神社
 玉鉾神社(たまほこじんじゃ)は、明治9年(1876)官許を得て創祀された神社です。社殿は伊勢神宮の御古材で昭和51年(1976)に再建された祠です。国学の四大人といわれる羽倉東麿・岡部真淵・本居宣長・平田篤胤の四柱を祀っていて、受験、学問の神と仰がれているそうです。
玉鉾神社


大歳御祖神社
 大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)は、応神天皇の時代(270-310)の創建されたと伝えられています。古くは奈古屋神社といわれたそうです。祭神の大歳御祖命( おおとしみおやのみこと)は大年神(おおとし)の母神という意味で、本名は神大市比売命(かむおおいちひめ)といいます。浅間通りに面して建つ赤鳥居をくぐると、大歳御租神社の神門があります。。
大歳御祖神社神門
 奈良時代には今の呉服町から七間町にかけて安倍の市(古代の市場)が開かれていました。大歳御祖神社は守護神として安倍の市の中にあったそうです。市の衰退とともにこの地に遷座されたと思われます。
大歳御祖神社拝殿
 大歳御祖神社は神門、拝殿、唐門、本殿と続いています。本殿は文政4年(1821)に起工され、天保7年(1836)に完成しています。三間社流造りで神部神社・浅間神社の本殿に比べると簡素なたたずまいです。組物・彫刻には極彩色を施しています。
大歳御祖神社拝殿
 大歳御祖神社には、天保7年(1836)竣工の拝殿と天保8年(1837)竣工の楼門がありましたが、第2次世界大戦により焼失しました。鉄筋コンクリート造りの拝殿と神門が再建されています。本殿、中門、透塀が国の重要文化財に指定されています。
大歳御祖神社拝殿


麓山神社
 麓山神社(はやまじんじゃ)は昔は賤機山の上に鎮座し、「山宮」といわれました。主神は浅間神社の木之花咲耶姫命の父である大山祇命を主神とし、日本武尊を配祀しています。そして宮元8ヶ町の氏神でもあります。
麓山神社拝殿
 浅間神社の別宮とされ、従来4本社の1つに列し独立の神社でした。明治12年(1879)郷社に列し、境内社となりました。社殿は本殿・拝殿・唐門・透塀を備え、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社と同規模の壮麗な建築です。細部に立川流の彫刻を置き、漆塗り極彩色を施しています。
麓山神社拝殿・本殿

 麓山神社の拝殿は文政7年(1824)に建てられました。桁行11間、梁間2間、一重、東面入母屋造り、西面切妻造り、本瓦葺きの建物です。国の重要文化財に指定されています。
麓山神社拝殿
 麓山神社の中門は文政5年(1822)に建てられています。桁行5間、梁間2間、一重、西面は入母屋造り、東面は切妻造り、本瓦葺きの建物です。国の重要文化財に指定されています。
麓山神社中門
 麓山神社の透塀(すきべい)は社殿周囲を囲む塀のことで、文政5年(1822)に建てられました。中ほどを連子(れんじ)・透かし彫りなどにして、内部が透けて見えるようにしています。石造桁橋及び石造高舞台、木造高欄付の透塀は国の重要文化財に指定されています。
麓山神社透塀
 麓山神社の本殿は文政5年(1822)に建てられました。黒を基調とした上に繊細な花鳥霊獣が彫られています。本殿は四脚門、切妻造り、本瓦葺きの建物で国の重要文化財に指定されています。
麓山神社本殿


八千戈神社
 八千戈神社(やちほこじんじゃ)は、八千戈命(大国主命)を祀り、相殿に明治6年(1873)以降合祭された18社13柱の神々(浅間神社末社9社・大歳社末社3社・麓山神社末社3社・旧安倍郡城内鎮座稲荷神社・旧安倍郡明屋敷村鎮座国分天神、騎射御霊)を祀っています。
八千戈神社
 八千戈神社は明治の神仏分離以前は摩利支天社というお寺でした。徳川家康の念持仏であった摩利支天像を安置するために造営されました。徳川家をはじめ幕府が殊に崇敬を尽くし、社殿も本社に次いで造営され壮麗です。摩利支天は今川家菩提寺の臨済寺に移されています。
八千戈神社

 八千戈神社の中門は天保9年(1838)に建てられた四脚門で、切妻造り、本瓦葺きです。中門は国の重要文化財に指定されています。
八千戈神社中門
 八千戈神社の透塀は中門をはさんで南透塀と北透塀が建てられています。連子(れんじ)・透かし彫りなどにして、内部が透けて見える造りです。天保9年(1838)に完成しています。八千戈神社透塀は国の重要文化財に指定されています。
八千戈神社透塀
 天保9年(1838)に建立された八千戈神社の本殿は、国の重要文化財に指定されています。五間社流造りの入母屋造り、銅瓦葺きで、朱塗極彩色を施してあります。造営は本社に次いで行われ、本殿中、両社本殿に次ぐ大きさです。蟇股には二十四孝を題材とした彫刻が付けられ、立川流の円熟した技を見ることが出来ます。
八千戈神社本殿


少彦名神社
 少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、少彦名命を主神とし、神部神社末社14社の神々を相殿に祀っています。明治の神仏分離以前は神宮寺薬師社といい、薬師如来・十二神将を安置していました。それらは臨済寺に遷され少彦名神社となっています。医薬の神として薬業関係者や病気平癒を祈る人々の参詣が絶えないそうです。
少彦名神社
 少彦名神社本殿は嘉永3年(1850)に建てられました。 桁行3間、梁間2間、校倉、入母屋造り、銅瓦葺きです。極彩色を施し、蟇股には立川流干支彫刻がつけられていて、十二支の彫刻が有名です。本殿は国の重要文化財に指定されています。
少彦名神社本殿


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