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静岡の旅と歴史
静岡の旅       静岡市葵区

駿府公園
すんぷこうえん
静岡県静岡市葵区駿府公園1−1
Tel 054-221-1121


 静岡市は、駿府の町といわれ、徳川家ゆかりの城下町として発展しました。二重の堀と美しい石垣に囲まれた駿府公園は、駿府城の跡地です。駿府城の中堀の内側の旧本丸・二の丸が整備されています。現在は東御門と巽櫓が復元されています。
 駿府城は徳川家康が築城し、余生を送った城です。園内には家康の銅像が建っているほか、天然記念物に指定されている家康お手植えのミカンの木も残されています。また約1万本のツツジが色とりどり咲き揃う5月は、また格別で、ひと際鮮やかな公園です。
 徳川家康は三河岡崎城で生まれました。幼名竹千代といい駿府の今川義元の人質として少年時代の12年間を駿府で過ごしました。駿府は今川、武田に領国化されていました、天正10年(1582)、織田・徳川連合軍により武田氏は滅亡し、甲斐・駿河は三河の家康が領有しました。天正13年(1585)に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されました。
 その後、天正18年(1590)、豊臣政権による北条氏滅亡に伴う家康の関東移封がなされました。徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入封しました。関が原の戦いで勝利した家康は、戦国乱世から天下統一させました。
 家康は若干27歳の三男の徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府城に移り住みました。駿府城は大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立しました。天守台は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大の天守台だったそうです。
 しかし、慶長12年(1607)城内からの失火により、完成直後の天守や本丸御殿などが焼失しました。再建されたものの、天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となりました。
 元和2年(1616)、駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として大いに繁栄しました。2代将軍秀忠は家康の遺言により、久能山東照宮を造営し、家康の遺骸を葬りました。
 家康が在城中の慶長14年(1609) 家康の第10子・徳川頼宣が駿府城主になっていましたが、元和5年(1619) 頼宣は和歌山に移封して、紀伊徳川家初代藩主になりました。
 寛永元年(1624) 徳川秀忠の第2子・徳川忠長が駿府城主となりましたが、寛永8年(1631) 乱心との理由で、兄である徳川家光に改易と甲府幽閉を命じられ、寛永9年(1632)忠長は高崎城で自刃させられてしまいました。
 忠長以後、駿府城に城主は置かれず、城代が任命されました。寛永12年(1635)城下の火災が城に延焼し、大半を焼失してしまいました。
 慶応4年 (1868年) 江戸城開城に伴い徳川慶喜は退隠。養嗣子の田安亀之助 (徳川家達) が駿府藩主となり駿府城に入りましたが、数年後、廃藩置県により、建造物は民間に払い下げられました。明治29年(1896) 歩兵第34連隊の基地になり、本丸堀(内堀)は埋められ、城郭施設は凡て取り壊されました。


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