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富山の旅と歴史
富山の旅         南砺市

瑞泉寺
ずいせんじ
富山県南砺市井波3050
Tel 0763-82-0013



 瑞泉寺は南北朝時代の永和年間(1375-1379)に本願寺5世・綽如(しゃくにょ)上人が巡錫で当地を訪れた際、霊地と悟り草庵を設けたのが始まりといわれています。後小松天皇から「周圓上人」の号と聖徳太子南無佛木像、聖徳太子絵伝(8巻)を賜り、明徳元年(1390)に堂宇を造営し「瑞泉寺」の勅号を賜りました。そして後小松天皇の勅願所として繁栄しました。
 綽如上人は瑞泉寺を拠点に浄土真宗を広め、2世の如乗(巧如上人の子)、3世蓮乗(蓮如上人2男)が続き、北陸地方で数多くの信者を得ました。北陸地方の一向宗の中心となり、加賀、越中、能登の一向宗の370ものお寺を束ねる一大拠点となりました。
 文明13年(1481)には領主である越中福光城主・石黒光義と天台宗の惣海寺の連合軍に勝利し、砺波地方一帯を支配しました。しかし天正9年(1581)に織田信長が越中に侵攻し、佐々成政の兵火により灰燼に帰しました。
 その後、城端北野に移りましたが、豊臣秀吉の越中侵攻で佐々成政が没落すると、現在地に堂宇を再建しました。天正19年(1591)に領主となった前田家から庇護され、万治3年(1660)に本堂を再建しています。
 明治12年(1879)、火災で山門(大門)を残して主要な伽藍が消失してしまいました。その後、明治18年(1885)に本堂が再建され、大正7年(1918)に太子堂が再建されています。瑞泉寺には寺宝が多く、紙本墨書後花園天皇宸翰消息と紙本墨書綽如上人勧進状が国の重要文化財に指定されています。
 また、絹本著色聖徳太子絵伝8幅が国の重要美術品に認定され、瑞泉寺境内は南砺市の史跡に指定されています。山門(大門)と、本尊で平安時代後期に造られた木造阿弥陀如来立像(檜の寄木造り)は富山県の重要文化財に指定されています。

瑞泉寺山門(富山県指定文化財)
 瑞泉寺の山門(大門)は、三間一戸、入母屋造り、本瓦葺きです。間口20.3m、奥行15.5m、高さ17.4mの総ケヤキ造り、八脚二重門です。真宗寺院建築の山門形式を代表する建造物で、昭和40年(1965)に富山県の有形文化財に指定されています。
瑞泉寺山門
 宝暦12年(1762)、瑞泉寺は全焼し、京都の本山(東本願寺)から肝煎(きもいり)方大工・柴田新八郎などが派遣されて各伽藍の再建が進められました。山門の工事は天明5年(1785)に始まりました。
瑞泉寺山門
 その工事中に本山である東本願寺が全焼してしまったのです。そちらを再建するために本山派遣の大工たちは引き上げてしまいました。そのため、地元の大工・松井角平が棟梁を受け継ぎ、文化6年(1809)上棟式を行ない、見事に山門を完成させたそうです。
瑞泉寺山門
 山門の各所には数々のすぐれた彫刻や文様が施されています。正面にある唐狭間(からさま)の彫刻「波に龍」は京都の前川三四郎の作です。中国民間伝承に登場する8人の仙人「八仙」が彫られている蟇股(かえるまた)は、地元井波の名工の手によって彫られています。
瑞泉寺山門

瑞泉寺本堂
 瑞泉寺の本堂は単層入母屋造り、銅板葺き、平入、間口25間(46m)、奥行23間半(43m)、面積590坪(1950u)です。明治12年(1879)、火災により焼失し、明治18年(1885)に再建された建物です。
瑞泉寺本堂
 瑞泉寺本堂は北陸地方の真宗寺院の中でも最大級の木造建築物で、棟梁は井波出身の松井角平恒広があたり、向拝などには井波彫刻が随所に施されています。本尊は阿弥陀如来、両脇壇には宗祖・新鸞上人や先門主の御影があり、右余間壇には後小松天皇尊牌が安置されています。
瑞泉寺本堂

瑞泉寺太子堂(南砺市指定文化財)
 瑞泉寺太子堂は大正7年(1918 )に井波彫刻の粋を集めて再建されました。間口16間、奥行16間、重層入母屋造り、本瓦葺き、平入で、正面に3間の軒唐破風の向拝が付けられています。外壁は真壁造り板張りで、内部には後小松天皇から賜った聖徳太子2歳像が安置されています。太子堂は南砺市の有形文化財に指定されています。
瑞泉寺太子堂
 もともと井波には太子信仰があり、浄土真宗とともに仏の教えがこの地域に広げられました。太子堂には大正時代の井波建築の粋を集めた大工や彫刻師の優れた技が発揮されています。屋根を支えている手挟みは精緻な造りで一本の木から掘り出されています。
瑞泉寺太子堂

瑞泉寺境内(南砺市指定史跡)
 瑞泉寺境内は昭和30年(1955)に南砺市の史跡に指定されています。広々とした境内には、本堂、太子堂、書院、鐘楼、山門、茶所、鼓楼、庫裏、詰所などが建ち並び、格式の高い佇まいをみせています。八乙女山を背景に美しい桜や藤の花々などが咲き乱れます。
瑞泉寺境内

瑞泉寺鐘楼堂
 瑞泉寺の鐘楼は間口5.1m、奥行4.6mの一重入母屋造りです。婦人団体「徳円会」によって建てられ、昭和7年(1932)に落慶しました。鐘楼に吊下げられている。大梵鐘は口径4.1尺(124cm)、重さ900貫(3372kg)で北陸随一です。
瑞泉寺鐘楼堂

瑞泉寺式台門(南砺市指定文化財)
 瑞泉寺の式台門は一間一戸、入母屋造り、銅板葺きの向唐門です。勅使参向の際の出入りに使われる勅使門です。菊の紋章が掲げられているので菊の門とも呼ばれています。宝暦12年(1762)の大火で全焼し、寛政4年(1792)に再建された門です。平成17年(2005)の大法要で大修復されています。
瑞泉寺式台門
 棟梁は井波出身の柴田清右衛門、彫刻は番匠屋9代の北村七左衛門があたり井波彫刻の源流を示す名作といわれています。昭和30年(1955)に南砺市の有形文化財に指定されています。門の両脇には、井波彫刻の元祖番匠屋七左衛門作の「獅子の子落し」の彫刻などがあります。
瑞泉寺式台門

後小松天皇廟
 瑞泉寺には後小松天皇廟があります。 大正15年(1926)に砺波の相撲講の募財で建立されました。後小松天皇は南北朝末期から室町初期の持明院統の天皇です。後円融天皇の第1皇子で。明徳3年(1392)、南北両朝合一に際し大覚寺統の後亀山天皇から神器を受け、応永19年(1412)譲位して院政をとりました。和歌・連歌に長じ、琵琶なども愛好したようです。一休宗純の父親でもあります。「周圓上人」の号を開基の綽如(しゃくにょ)上人に授けています。
後小松天皇

瑞泉寺司晨楼(南砺市指定文化財)
 瑞泉寺の司晨楼(ししんろう)は間口5.1m、奥行4.6mの一重入母屋造り、上層は鉄板葺き、下層が桟瓦葺きの太鼓堂です。「すでに暁天(ぎょうてん)明けなんとすれば、是を打ちて人の睡魔を破りて仏前に向かわしめ、礼仏恭敬をすすむる鼓なり」と瑞泉寺11世で、俳人として知られる浪化(なみか)が司晨楼と命名しています。
瑞泉寺司晨楼
 浪化の司晨楼之記にあるように、広い講堂に読経などの時を告げる合図として、太鼓が鳴らされたということです。たびたび類焼した太鼓堂ですが天保13年(1842)に再建され、昭和50年(1975)に修復されています。平成12年(2000)に南砺市の有形文化財に指定されています。
瑞泉寺司晨楼


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