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富山の旅と歴史
富山の旅           小矢部市

埴生護国八幡宮
はにゅうごこくはちまんぐう
富山県小矢部市埴生2992
Tel 0766-67-1220


 埴生護国八幡宮は養老2年(718)、宇佐八幡宮(大分県)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。天平時代には越中国守だった大伴家持が国家安寧を祈願しました。寿永2年(1183)には木曽義仲が倶利伽羅峠の合戦を前に戦勝祈願を行っています。
 以来、武将の崇敬厚く、室町時代には将軍足利家より社領1000俵の寄進を受けました。歴代領主である蓮沼城主遊佐氏から庇護され、戦国時代には前田利長や佐々成政から社領を寄進されています。江戸時代には加賀藩主前田家の祈願社となりました。
 慶長5年(1600)に加賀藩2代藩主・前田利長が大聖寺城を攻めた際、戦勝祈願したことから本殿が寄進されました。慶長16年(1611)には3代藩主・前田利常が利長の病気平癒を祈願して釣殿を寄進しています。
 正保3年(1646)には利常夫人の天徳院の産後平癒祈願のため拝殿、幣殿が寄進されています。埴生護国八幡宮の本殿、拝殿、幣殿、釣殿は国の重要文化財に指定され、木像男神像2体、義仲戦勝祈願書、佐々成政寄進状、豊臣秀吉陣備図、武田信玄書状など埴生護国八幡宮文書45点が富山県の文化財に指定されています。
 護国という社号の由来は慶長2年(1608)、前田利長が凶作が続いたのを憂慮し、豊作祈願を行い、叶ったことから国を護った神社として護国八幡宮と称するようになったと伝えられています。

 埴生護国八幡宮の拝殿及び幣殿は正保3年(1646)、利常夫人の天徳院の産後平癒祈願のため寄進された建物です。拝殿は桁行5間、梁間3間、1重、入母屋造り、正面に千鳥破風付、向拝一間、こけら葺きです。幣殿は桁行3間、梁間3間、1重、背面入母屋造り、こけら葺きで拝殿に接続しています。大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。  
埴生護国八幡宮拝殿・幣殿
 埴生護国八幡宮の本殿は慶長5年(1600)に前田利長が大聖寺城攻めの際、戦勝祈願し成就したことから建立された建物です。三間社流造り、向拝一間、こけら葺きで、 大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。
埴生護国八幡宮本殿
 埴生護国八幡宮の釣殿は慶長16年(1611)に3代藩主・前田利常が兄である利長の病気平癒を祈願して寄進した建物です。桁行2間、梁間1間、1重、両下造り、こけら葺きで、前後を幣殿と本殿に接続しています。大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。
埴生護国八幡宮釣殿
 境内には木曽義仲の騎馬武者姿の雄雄しい像が建っています。寿永2年(1183)、義仲は倶利伽羅峠の合戦を前に埴生護国八幡宮で戦勝祈願を行いました。平維盛(これもり)率いる義仲征伐軍は10万の大軍、義仲軍は半分の5万でした。義仲は軍を本隊4万と分隊1万に分け、分隊を平氏軍の背後に回らせ、断崖の近くで夜襲をかけ圧勝しました。
木曽義仲騎馬像
 埴生護国八幡宮の入口に富山の名水55選の一つ・鳩清水があります。水源を倶利伽羅山の中にある鳩清水の滝に発し、3kmの山中を経てここ八幡宮の手洗鉢に至っています。この清水は、木曽義仲が埴生護国八幡宮で倶利伽羅の合戦の戦勝祈願をした時、白鳩が飛来し、その案内で源氏方が清水の霊水を発見したと伝えられています。
鳩清水


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