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富山の旅と歴史
富山の旅           高岡市

勝興寺
しょうこうじ
富山県高岡市伏木古国府17−1
Tel 0766-44-0037


 勝興寺は越中国府の国庁跡と伝わる地に建立された浄土真宗本願寺派のお寺です。承久の乱(1221)で佐渡へ流された順徳天皇の第3皇子・成彦親王が親鸞に帰依して、善空房信念となり、佐渡に一宇を創建、上皇より殊勝誓願興行寺という勅号を得たのが始まりだといわれています。
 文明3年(1471)、本願寺6世・蓮如が越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に土山御坊を開きました。蓮如の子・蓮誓は、二俣本泉寺、井波瑞泉寺とともに3寺を兼任しました。
 その後、明応3年(1494)に蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転しました。永正14年(1517)に順徳上皇の勅願所だった勝興寺の寺号を譲られることになり本願寺も承認しました。火災による焼失後、永正16年(1519)に安養寺村(小矢部市末友)に移転し、安養寺御坊勝興寺と改めています。
 当時の寺領は10万石に及び、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るいました。天正9年(1581)に織田信長と石山寺本願寺との合戦に参戦しました。その間隙をついて木船城主石黒左近が領内に侵入し堂宇は焼失しました。
 天正12年(1584)、佐々成政に属した守山城主・神保氏張から現在地である出城の古国府城が寄進され、堂宇を再建されました。その後領主となった前田利長からも庇護され寺領が安堵されました。
 江戸時代に入ると加賀藩主前田家から庇護され寺領75石が寄進され、堂宇の改修や造営にも藩費が使われました。慶安2年(1649)に3代藩主・利常の養女つるが入輿し、延享3年(1764)には5代藩主・吉徳の8男・時次郎が勝興寺に入りました。
 明和8年(1771)、兄・重教の隠居により、勝興寺住職となっていた前田時次郎は還俗して加賀藩10代藩主・治脩(はるなが)となりました。現在の勝興寺の境内は約3万3千平方mと広大で、周囲は堀に囲まれ、中世の豪壮な城郭寺院の風格を残しています。
 本堂、大広間及び式台は令和2年(2020)に国宝に指定されました。唐門、経堂、御霊屋、鼓堂、宝蔵、総門、式台門、台所、書院及び奥書院、御内仏が国の重要文化財に指定されています。寺宝も紙本金地著色洛中洛外図など数多く所持しています。

勝興寺本堂(国宝)
 勝興寺の本堂は間口39.3m、奥行37.4m、高さ23.5mの大きな建造物です。1重、入母屋造り、向拝3間があり、金属板葺きで、寛政7年(1795)に建てられています。全国の国宝・重要文化財の建造物の中でも平面積は8番目の大きさを誇っています。令和2年(2020)に国宝に指定されました。
勝興寺本堂

勝興寺唐門(国指定重要文化財)
 勝興寺の唐門は切妻造りで、間口6mの四脚門です。屋根は銅板葺で前後とも軒唐破風付です。明和6年(1769)に京都の浄土真宗興正派の本山である興正寺で建立されています。明治26年(1893)、興正寺より譲り受け、北前船2隻で運ばれ移築されました。昭和55年(1980)、国の重要文化財に指定されています。
勝興寺唐門

勝興寺鼓堂(国指定重要文化財)
 勝興寺の鼓堂は間口3間、奥行3間、1重もこし付、宝形造り、桟瓦葺きで、文化2年(1805)に建てられています。内部は塗を施さない欅の素木造りで、中央の手動回転の大形八角輪蔵は形式、細部とも本格的で極彩色を施しています。平成7年(1995)、国の重要文化財に指定されています。
勝興寺経堂

勝興寺鼓堂(国指定重要文化財)
 勝興寺の鼓堂は間口7.6m、奥行7.5m、2重2階、入母屋造り、桟瓦及び本瓦葺きで、享保18年(1733)に建立されています。太鼓堂とも呼ばれますが、現在太鼓は吊るされていません。総門をくぐった正面、掘割に面して建っており、城郭の櫓(やぐら)に似た姿です。平成7年(1995)、国の重要文化財に指定されています。
勝興寺鼓堂


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