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山梨の旅と歴史
山梨の旅      甲府市

東光寺
とうこうじ
山梨県甲府市東光寺3ー7ー37
Tel 055-233-9070


 法蓋山(ほうがいざん)東光寺は、本尊を薬師如来とする臨済宗妙心寺派のお寺です。東光寺は長禅寺、能成寺、法泉寺、円光院と共に甲府五山の一つに数えられる名刹です。
 東光寺の前身は新羅三郎義光が保安2年(1121)に、諸堂を建立した興国院にはじまるといわれています。文久5年(1268)、鎌倉建長寺を開山した中国の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(大覚禅師)が鎌倉を追われ甲斐に配流されました。
 そして、蘭渓道隆は、弘長3年(1263)興国院に入山して、荒廃した諸堂を修復し、禅宗寺院として再建し、本格的な宋朝禅を伝え、東光寺としました。その後、鎌倉幕府の執権北条高時(法名崇鑑)から、幕府の官寺として「五山」「十刹」につぐ「諸山」に列せられました。
 戦国時代には、武田信玄が定めた外護、府中五山の一つに列せられた名刹になっています。天正10年(1582)、織田信長に焼かれ、住持藍田和尚は恵林寺に避難しましたが、のち快川和尚ら114人の僧と共に三門の楼上で焼殺されました。
 境内には山門、仏殿、本堂が一直線に並んで建っています。本堂の裏には背後に迫る山を利用して作った池泉観賞式の庭園があります。これは蘭渓道隆の作と伝えられ、中国北宋の様式を色濃く残す名園です。
 江戸時代に入り、甲府城主・柳沢吉保、吉里父子により伽藍の整備や修理が行われ往時の壮麗な姿が戻りました。しかし、甲府大空襲などでほとんどの建物が焼失してしまいました。
 本堂裏山の墓地には武田義信と諏訪頼重の墓があります。義信は長男でありながら父信玄と対立しました。永禄8年(1565)に謀反の疑いをかけられ、この東光寺に幽閉され永禄10年(1567)に亡くなっています。
 諏訪頼重は名族諏訪氏19代当主で、信玄の妹を夫人に迎えていましたが武田信玄に攻められて敗れ、この寺に幽閉され切腹させられました。勝頼は信玄と諏訪頼重の娘(湖衣姫とか由布姫とかいわれていますが名前は分かっていません)の子です。

 仏殿は、幾たびかの兵火から奇蹟的に免れた室町末期の建物で鎌倉禅宗様式の代表的な建築物です。国宝の清白寺仏殿(山梨市)、最恩寺仏殿(富沢町)とともに、中世の宋様式建築の姿をとどめ、国の重要文化財に指定されています。
東光寺仏殿
 仏殿は天文年間(1532-1555)に建てられたと推定されています。桁行3間、梁間3間、入母屋造りで檜皮葺きです。一重もこし付の唐様仏殿です。堂内には県指定文化財の本尊である木造薬師如来座像と十二神将像が祀られています。
東光寺仏殿


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