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山梨の旅と歴史
山梨の旅    甲州市

恵林寺
えりんじ
山梨県甲州市塩山小屋敷2280
Tel 0553-33-3011


 乾徳山恵林寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。元徳2年(1330)、領主であった二階堂道蘊(どううん)が名僧、夢窓国師を招いて創建した甲州随一の名刹です。夢窓国師のあと、絶海中津や龍湫周沢らの高僧が住持して臨済禅の中心になりました。
 永禄年間(1558-1570)に武田信玄は寺領300貫を寄進しています。永禄7年(1564)快川紹喜を招いて住持とし、自らの菩提寺としました。仏教とともに様々な香り高い文化が甲斐の国に伝えられました。
 緑濃い広大な境内は3万平方mもあります。諸堂が立ち並び、夢窓国師が作庭した本堂裏手の池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されています。重要文化財の赤門、信玄の墓所などがあり、禅の気風が漂う、簡素で美しい寺院です。
 鎌倉時代の禅宗様式を伝える庭園は、京都の天龍寺、西芳寺とともに、国師築庭の代表作で、上段は枯山水、下段は心字池と築山の2段構えの美しさを見せています。建物をつなぐ橋には庭を眺める為の縁台が設けられていて、当時のわびさびを感じる事ができます。
 武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(1521)に生まれました。天文10年(1541)、21歳で家督を次ぎ甲斐国主となりました。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する武将であったようです。
 信玄は元亀 4年(1573)、53歳でが没します。葬儀は、3年間の秘喪の後、天正4年(1576) に、ここ恵林寺において、勝頼を喪主として盛大に営まれました。
 甲斐武田氏滅亡後の天正10年(1582)、恵林寺は織田信長の嫡男・信忠率いる織田軍に包囲されました。信長に敵対した南近江の佐々木(六角)義治らがこの恵林寺に匿われていたからです。信忠は身柄の引渡しを要求しましたが、快川国師は拒否したため、焼き討ちされ、恵林寺は灰燼と帰しました。
 その年に本能寺の変で信長・信忠が殺害されると、徳川家康が甲斐の領主となりました。家康は恵林寺の復興に尽力し、幕府から永世特別保護寺院の扱いを受け、格式は10万石の大名なみであったそうです。又、恵林寺は5代将軍綱吉の側近で、甲府城主となった柳沢吉保の菩提寺でもあり、庇護を受け繁栄しました。

 恵林寺は武田氏滅亡時に織田軍によって焼かれてしまいました。後に徳川家康により再建されました。赤門は四脚門でこの時に再建された門です。慶長10年(1606)の棟札があり、国の重要文化財に指定されています。
恵林寺赤門
 恵林寺の三門は、天正10年(1582)近江の豪族佐々木義治をかくまったことから、織田の怒りを買い、快川国師が114人の僧と共に楼上で焼殺された場所です。その際に「安禅不必須山水、減却心頭自涼」の言葉を残したそうです。これは「安禅は必ずしも山水を用いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」という意味だそうです。
恵林寺三門
 恵林寺にある武田信玄の訓言の石碑です。7割の勝ちをもって良しとし、決して勝ち過ぎてはいけないとの戒めです。
武田信玄訓言
 信玄霊廟明王殿の裏側には武田信玄の墓が建っています。信玄の墓は全高349.6cmの五輪塔と369.6cmの宝篋印塔の2つです。これらは寛文12年(1672)の信玄百回忌に際して武田家遠孫と旧家臣団によって建立されたそうです。
武田信玄の墓
 「風林火山」とは孫子からの引用文であり「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」を意味するそうです。「早きこと風のごとし、静かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」という意味で武田軍の軍旗などにも書かれていました。
風林火山
 恵林寺には柳沢吉保夫妻の墓があります。吉保は幼少から綱吉の小姓でした。綱吉が5代将軍になってからは小納戸役となり、後に側用人となりました。川越藩7万石老中格、老中上座(大老格)、松平吉保とも名乗りました。宝永元年(1704)甲府15万石の領主となり、綱吉が没すると隠棲しました。
柳沢吉保夫妻の墓
 明敏な才気と好学によって綱吉の信任を得、綱吉とその母桂昌院の信任で異例の立身出世をとげました。元禄の側用人政治との批判もあびましたが、学問を奨励、荻生祖徠を登用するなど功績も大きかったようです。
柳沢吉保夫妻の墓
 渡り廊下の先には、歩くときゅきゅと音がするうぐいす廊下があります。人が上を歩くときしみ音がするように板を張って仕上げているのです。
うぐいす廊下


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