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山梨の旅と歴史
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窪八幡神社
くぼはちまんじんじゃ
山梨県山梨市北654
Tel 0553-33-6950


 窪八幡神社の創建は貞観元年(859)、清和天皇の勅願により、九州にある宇佐八幡宮の分霊を笛吹川と重川の中島・大井俣(おおいまた)の地に勧請したのが始まりと伝えられています。当初は大井俣神社といわれていました。
 康平年間(1058-1065)、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光が現在地である窪へ遷座しました。そのため、大井俣窪八幡神社、窪八幡神社と呼ばれるようになりました。
 以来、武田家の崇敬と保護厚く、10代信綱から16代信玄にいたる歴代武田家によって社殿の再建・修理や社領の寄進などが行われました。応永17年(1410)、甲斐守護職武田信満により社殿が再建されました。
 しかし、永正13年(1516)、大永元年(1521)と度重なる今川氏の甲斐侵攻の兵火により本殿以外の多くの社殿が焼失しました。今川勢が撤退すると境内の整備が進み大永5年(1525)には普賢堂、薬師堂、鐘楼などが再建されました。
 天正10年(1582)、武田家が滅ぶと織田信長に社領を没収されましたが、本能寺で信長が殺害された後、領主となった徳川家康からは社領が安堵されました。古くから神仏習合し別当には普賢寺があたっていましたが、明治時代に入って発令された神仏分離令により仏式が廃されました。
 窪八幡神社の鳥居、神門と石橋、拝殿、本殿、木造狛犬、摂社若宮八幡神社の拝殿と本殿、末社武内大神本殿、末社高良神社本殿、末社比梼O神本殿などが国の重要文化財に指定されています。また窪八幡神社鐘楼、窪八幡神社如法経塔が山梨県指定文化財です。

 鳥居は、神社境内から東方に離れた参道にあって、神門を望む位置に建てられています。天文4年(1535)、武田信虎によって42歳の厄払い祈願のため建立された鳥居です。正面に「大井俣神社」と文字金箔押しの木製神額が掲げられています。日本で一番古い木造の鳥居です。
窪八幡神社鳥居
 鳥居は、高さは7.41m、横幅が5.91mあり、両方の柱の前後に控柱をつけた木造両部鳥居です。材質には目の込んだ杉が使われていて、親柱を連結する貫だけは節の多い松が使われています。室町時代の鳥居として国の重要文化財に指定されています。
窪八幡神社鳥居

 神門は、境内の正面入口に東面して建ち、総門とも呼ばれます。社記によると、永正8年(1511)に建てられています。その後、明和6年(1769)に修理されていることが箱棟の墨書によって明らかになっています。
窪八幡神社神門
 切妻造り、桧皮葺きの四脚門で、素木造りです。中央両側に太く丸い親柱が礎盤の上に立ち、冠木(かぶき)の木に板蟇股や束をたてて棟木をささえ、桧皮葺きの屋根を置いています。恵林寺の四脚門と同じ形です。神門は昭和28年(1953)、国の重要文化財に指定されています。
窪八幡神社神門

 神門の前の堀には軽く反った石橋がかかっています。社記の記録によると、天文4年(1535)、武田信虎によって42歳の厄払い祈願のため鳥居とともに建立されています。
窪八幡神社石橋
 石橋はがっしりした反橋で、繰形の透かしを入れた勾欄(こうらん)から擬宝珠(ぎぼし)をつけた親柱までをぶ厚い1枚石で彫り上げています。窪八幡神社神門附石橋1基として昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。
窪八幡神社石橋

 国指定重要文化財の窪八幡神社拝殿は本殿の前に建立されています。社記には天文22年(1553)に武田信玄が、信州の村上義清を攻略の際に祈願成就のため造替が行われたと記されています。弘治3年(1557)、宿願が成就し、報恩のため拝殿を建立したことが社記・墨書銘によって明らかにされています。
窪八幡神社拝殿
 拝殿は本殿とほぼ同じ桁行11間という長い建物です。梁間3間、1重切妻造り、桧皮葺きです。左右が対称ではない点、床が低い点などは神社拝殿としては特異で、庁屋(現在でいう社務所)として使用されていたと考えられます。鰐口の表面には天文22年(1553)、裏面には弘治3年(1557)の刻銘があります。
窪八幡神社拝殿

 窪八幡神社本殿は11間社流造り、桧皮葺きで、現存する日本最大の流造本殿です。桁行11間(22m)、梁間2間で、3間社流造りの3社が間に1間をおき、それぞれ横に連結しています。中央に誉田別尊(応神天皇)、左の北殿に足仲彦尊(仲哀天皇)、右の南殿に気長足姫尊(神功皇后)が祀られています。
窪八幡神社本殿
 昭和26年(1951)の解体修理の際、中殿から永正16年(1519)の墨書が発見されました。社記によると、武田信虎が再建した建物で、享禄4年(1531)信虎が修復、弘治3年(1557)信玄が川中島合戦の戦勝祈願成就によって、御扉と金箔による豪華な壁画を奉納しています。本殿は明治40年(1907)、国の重要文化財に指定されています。
窪八幡神社本殿

 窪八幡神社摂社の若宮八幡神社拝殿は、若宮八幡神社本殿の前にあり、本社拝殿の右に建っています。社記によると、天文5年(1536)武田信虎が再建した建物です。隣の本社拝殿により20年ほど早く建てられています。昭和24年(1949)国の重要文化財に指定されています。
摂社若宮八幡神社拝殿
 桁行4間、梁間3間、入母屋造り、屋根は桧皮葺きです。装飾的な部分が少ない簡素な建物で、落ち着いた外観をあらわしています。様式、手法は本社拝殿に似ていますが、本社拝殿が切妻造りであるのに対して、この拝殿は入母屋造りになっています。
摂社若宮八幡神社拝殿

 窪八幡神社摂社の若宮八幡神社本殿は本社本殿の右に並立しています。 昭和24年(1949)国の重要文化財に指定されています。祭神の大鷦鷯尊(仁徳天皇)は、本社祭神と縁故が深い神なので摂社といわれています。社記によると、応永7年(1400)武田信昌が再建と記されていますが、建築様式から15世紀後期、信綱の再建と推測されています。
摂社若宮八幡神社本殿
 三間社流造り、桧皮葺きで、軸部の内部まで仕上げられた円柱、幣軸構えの形式、脇障子を省略した縁、きわめて深く折れた破風の反りなど、多くの点が古い方式で造られています。数多い窪八幡神社社殿のなかでも最古の建造物です。
摂社若宮八幡神社本殿

 国指定重要文化財の窪八幡神社末社の武内大神本殿は本社本殿の左の南側にあり、武内宿禰(たけのうちすくね)を祀っています。宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる長生きをしたという伝説的人物です。
末社武内大神本殿
 社記によると、明応9年(1500)、武田信昌の時、久保川豊前守の奉行で再建されたとされています。質素な素木造りで、9段の木階を付け、回縁には刎高欄をめぐらせています。この社殿の絵様彫刻は優美な曲線を示し、木割は雄大でよく整い小規模の本殿建築の代表作といわれています。
末社武内大神本殿

 窪八幡神社末社の高良神社本殿は本社拝殿の南側に建ち、高良明神を祀っています。武内大神本殿と同じく明応9年(1500)、武田信昌の時、再建されたとみられています。昭和24年(1949)国の重要文化財に指定されています。
末社高良神社本殿
 一間社隅木入春日造り、桧皮葺きで、室町時代後期の手法をよく示しています。向拝角柱大面取り、虹梁木鼻に天竺様皿(さら)斗を置いています。軒は向拝一軒、身舎は二重、正面千烏破風に木連格子を用いています。懸魚は猪目で上に鬼板を載せています。
末社高良神社本殿

 窪八幡神社末社の比梼O神本殿は境内前部の池の中島に建てられています。祭神は田心姫命(たこころひめのみこと)、湍津姫命(にきたづひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の三神です。明治時代初期まで「弁財天」と呼ばれていました。
末社比梼O神本殿
 一間社流造り、銅板葺き(もとは桧皮葺き)の現在の社殿は寛永2年(1625)徳川忠長が再建したと伝えられています。身舎正面で87cmと小さな社ですが、白・朱・黒と各部を塗り分け、金箔を施した総漆塗りです。華麗な社殿で、江戸時代初期の様式の特色をよく示し、国の重要文化財に指定されています。
末社比梼O神本殿

 窪八幡神社鐘楼は本社拝殿の北東に位置しています。桁行1間、梁間1間、袴腰付、桧皮葺き、寄棟造りです。明応9年(1500)頃の建立と推定されています。神仏習合の姿を残す貴重な建物です。倒壊寸前でしたが、県有形文化財に指定され、昭和56年(1981)解体復元されました。
窪八幡神社鐘楼

 窪八幡神社にある如法経塔は、享禄5年(1532)に建てられました。如法経塔とは、「写経に羽毛を用いず草を筆とし石を墨として一字ことに礼拝書写するいわゆる如法業(にょほうぎょう)によった経文を埋納して建てた塔」のことです。
窪八幡神社如法経塔
 この塔は安山岩製で、高さ1.40m、基礎、塔身、笠などの示す比率はよく均衡が保たれています。たるき型を設けた軒の反りが屋根の反り方と相まって、室町期の特色を現わしています。全国的にも数少ない貴重な塔で、昭和54年(1979)に山梨県の有形文化財に指定されています。
窪八幡神社如法経塔


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