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兵庫の旅と歴史
兵庫の旅    赤穂市

赤穂城
あこうじょう
兵庫県赤穂市上仮屋1424−1


 赤穂城になる前は室町時代に赤松満祐の一族岡豊前守が、天正年間には宇喜多秀家が陣屋を築いていました。刈谷城(加里屋城)と呼ばれていたそうです。関ヶ原合戦後は、姫路藩池田輝政の所領となりました。赤穂藩の始まりは元和元年(1615)池田輝政の5男池田政綱が2万5千石を与えられて入城してからです。しかし、正保2年(1645)政綱の後を継いだ池田輝興が発狂して妻女を殺害したため、赤穂池田氏は2代31年間で廃絶となりました。

 常陸笠間から浅野長直が5万3千5百石で入封し、慶安元年(1648)から13年間を費やして新城を築きました。築城に当たっては甲州流軍学者の近藤正純、山鹿流の兵法者として有名な大石蔵内助の師匠、山鹿素行も関わったそうです。

 浅野長直・長友・長矩(ながのり)と続き、元禄14年(1701)に浅野長矩は、江戸城松の廊下で高家の吉良義央(よしなか)に刃傷に及び、即日切腹させられました。そして赤穂浅野家は取り潰しとなったのです。元禄15年(1702)12月14日、大石内蔵助を首領とする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちました。これは単なる仇討ちだけではなく、幕府の政道を問う歴史的大事件でもありました。

 討ち入りから浪士の人数である47年目に仮名手本忠臣蔵が大坂の竹本座で初演されました。以後、赤穂浪士事件は「忠臣蔵」と呼ばれるようになったそうです。
 浅野家取り潰し後の赤穂城は下野国烏山(栃木県)から永井直敬が3万3000石で入封しました。4年後森長直と替わり以後代々森氏2万石の居城となり11代で明治維新を迎えたということです。


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