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兵庫の旅と歴史
兵庫の旅    朝来市

生野銀山
いくのぎんざん
兵庫県朝来市生野町小野33−5
Tel 079-679-2010


 生野銀山は兵庫県中央部、朝来(あさご)市にあった銀山です。生野町は明治22年(1889)以来、百年以上合併をしないで独立独歩で歩んできましたが、平成17年(2005)4月に合併して朝来市となりました。
 生野銀山の開坑は、大同2年(807)といわれていますが、はっきりした年代はわからないようです。文献や様々な資料から、中世戦国時代にはすでに本格的に操業されていたようです。応永34年(1427)山名時熈(ときひろ)が赤松満祐討伐のために、生野に来て古城山に山城を築き、これが後に銀山への拠点となりました。 
  室町の天文11年(1542)には山名祐豊(すけとよ)が銀鉱脈を発見、本格的な採掘が始まったそうです。その後、竹田城主太田垣氏を経て織田信長、豊臣秀吉の直轄地になります。
 江戸時代には徳川家康が「銀山奉行」を設置しました。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と並び徳川幕府の貴重な財源になりました。この頃、小野の金香瀬周辺だけでなく、白口方面にも鉱脈が発見されていきました。
 三代将軍家光の時、最盛期を迎えました。月産150貫(約562kg)の銀を産出したそうです。生野の銀は朝鮮の綿布や中国の絹と交換貿易された日本の主要な輸出品になっていました。
 明治元年(1868)生野銀山は政府直轄の鉱山になりました。フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエが招かれ、軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策を行ない、目覚ましい近代化を成し遂げました。坑口は、フランス式の石組で築造されています。
 明治22年(1889)に宮内省御料局の所管に移され皇室の財産になりました。明治29年(1896)には三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の大鉱山となりました。昭和48年(1973)「山はね」や落盤など鉱山の老朽化、地下資源の枯渇による品位の低下などからに閉山したのでした。
 その間掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達っしました。採掘した鉱石の種類は70種にも及んでいます。現在は旧坑道や鉱石標本などを活用した観光施設「史跡生野銀山」として生まれ変わり、多くの観光客が訪れています。

 生野銀山の入口に明治政府の直轄鉱山の印とも象徴される菊の御紋が入った門柱が建てられています。明治元年(1868)責任者として招かれたフランス人のジャン・フランソワ・コワニエが当時の工場正門として築造したもので、昭和52年(1977)に現在地に移設されたものです。
菊の御紋の門柱

 菊の御紋が入った門柱のすぐそばに、・コワニエが建造した選鉱所建屋の赤レンガの残骸が残されています。当時、赤レンガは生野で作られ、レンガの接着にはしっくいが使われたそうです。
コァニェの赤レンガ

 徳川時代の末期に手堀りで掘られた洞窟があります。奥にある祠は鉱業守護の鎮守である山神宮の分社です。金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀っていて、太盛山金香瀬山の黄銅鉱が見石として供えられています。
山神宮分社

 金香瀬坑は標高365mのところにある石造りの坑口です。フランスより招聘されたジャン・フランソワ・コワニエが築造したフランス式の坑口です。
金香瀬坑

 鉱山資料館は大鉱山である生野銀山の栄光の歴史、銀の歴史、日本全国の鉱床についての説明、銀山での作業の様子、生活の様子などを写真や資料をパネルにして展示、紹介しています。
鉱山資料館

 鉱山資料館の近くに吹屋資料館があります。吹屋とは、銀を精錬することにあたります。 吹屋の作業は素吹、真吹、南蛮絞、荒灰吹、上銀吹の5つの工程に分かれています。銀ができるまでの工程が一目でわかるように展示しています。
吹屋資料館

 生野銀山の一帯はひかげつつじの群生地としても有名です。常緑低木で花は淡黄色で少し緑色を帯び、4月中旬頃咲くそうです。
ひかげつつじ群生地


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