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兵庫の旅と歴史
兵庫の旅    姫路市

圓教寺(円教寺)
えんぎょうじ
兵庫県姫路市書写2968
079-266-3327


 書写山円教寺(圓教寺)は天台宗の別格本山で、「西の比叡山」とよばれ、西国33所中最大規模の古刹です。姫路城西北6kmの、海抜371mの書写山山上に位置しています。康保3年(966)、国司藤原季孝の援助により性空上人が草庵を設けたのが始まりと伝えられています。
 性空上人は京都の下級貴族であった橘善根の子供です。36歳で出家して九州の霧島山や背振山などの霊山で修行を積み書写山にたどり着き、円教寺を建てたそうです。
 性空上人に深く帰依した花山天皇は、寛和2年(986)、長保4年(1002)の2度に渡って円教寺を訪れています。花山天皇は「円教寺」の寺号を与えるとともに、西国33所霊場を再興し円教寺もその27番札所としたことから広く知られるようになりました。
 承安4年(11174)には後白河法皇が来山して17日間参籠しました。鎌倉初期の貞水から寛元年間(1232-1247)には食堂、五重塔、経蔵など多くの堂宇が造立されましたが、元徳3年(1331)雷火で講堂、食堂、常行堂など焼失しました。
 元弘3年(1336)には諸堂はすべて再建され、同年には隠岐島を脱出して逃げてきた後醍醐天皇を隠しています。室町時代に入ると初代将軍足利尊氏が寺領を寄進するなど足利将軍家から庇護され、比叡山延暦と大山寺とともに天台宗三大道場となり繁栄しました。
 戦国時代に羽柴秀吉が領主になると冷遇され、寺領が没収されたうえ仏像や寺宝なども持ち去られ衰退しました。江戸時代に入ると姫路藩主が菩提寺として庇護し、朱印地833石を与えられ、諸堂は修復、再建されました。本多家、松平家、榊原家の霊廟も造られました。
 境内は書写山一帯を占めて面積34万3千平方mで、全域が国の指定史跡になっています。大講堂、常行堂、食堂、護法堂、護法堂拝殿、鐘楼、金剛堂、開山堂、寿量院棟門、十妙院客殿庫裏唐門などが国の重要文化財に指定され、摩尼殿が国の登録有形文化財に登録されています。
 円教寺にはロープウエイか徒歩でしか行けません。境内は、仁王門から十妙院にかけての東谷、摩尼殿を中心とした中谷、三之堂、奥之院のある西谷に区分されます。伽藍がある書写山山上一帯は兵庫県指定書写山鳥獣保護区の特別保護地区に指定されています。

東谷
 ロープウェイ山上駅から、仁王門を経て摩尼殿までいたる地区を東谷といいます。山上駅から仁王門への参道は「西国巡礼の道」といわれ、道の左右には、西国33所の各札所本尊を表した銅像が設置されています。仁王門を通り、寿量院、十妙院を過ぎると、権現坂になり、湯屋橋という小さな石橋を下ったところが摩尼殿の下になります。

 円教寺の仁王門は3間1戸の八脚門です。これより中は聖域とされます。天井は前後に2つの棟をつくり、外の屋根と合わせた三つ棟造りとなっています。江戸初期の建物で、両脇に一対の仁王像がかまえています。仁王門は兵庫県指定文化財で、仁王像は、姫路市指定文化財です。
円教寺仁王門

 壽量院(じゅりょういん)は円教寺の塔頭の一つです。江戸中期の建物で、棟門は平成25年(2013)に国の重要文化財に指定されました。承安4年(1174)に後白河法皇がここに参籠したという記録があり、山内で最も格式がある塔頭寺院です。
円教寺壽量院

 円教寺の寿量院の隣に、五重塔跡が残されています。現在は礎石しか残されていませんが、「書寫山圓教寺参詣図」や「播州書寫山縁起絵巻」、「播州書寫山伽藍之図」などに五重塔が描かれています。
円教寺五重塔跡

 十妙院(じゅうみょういん)は円教寺の塔頭の一つです。客殿と庫裏及び唐門が平成25年(2013)に国の重要文化財に指定されました。江戸時代の建物で、仏間を中心とした方丈と台所を設けた庫裡とをあわせた構造です。壽量院とともに円教寺独特の構造を持った建物です。
円教寺十妙院

中谷
 摩尼殿を中心とした地区は中谷と呼ばれています。

 円教寺にある護法石は摩尼殿の下の湯屋橋近くにある球状の2つの石です。昔、この石の上に乙天、若天のふたりの童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っているそうです。弁慶がこの大きな護法石をお手玉にしたといわれ、「弁慶のお手玉石」とも呼ばれているそうです。
円教寺護法石

 円教寺摩耶殿の下には湯屋橋という石橋があります。「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺 御石橋 願主 本多美濃守忠政」の銘が刻まれています。元和6年(1620)、姫路藩主となったばかりの本多忠政は円教寺諸堂の荒廃を嘆き、再興に尽力しました。
円教寺湯屋橋

円教寺摩尼殿
 円教寺の摩尼殿(まにでん)は書写山の中心となる本堂で、木造如意輪観音坐像を祀ることから如意輪堂ともいわれます。「まに」とは梵語の如意という意味で、如意とは「思いのまま」という意味があります。摩尼殿は木造平屋建て、懸造りの仏堂です。懸造り部は間口9間、奥行4間、貫3段です。上屋部は間口10間、奥行7間、入母屋造り、唐破風付 本瓦葺き、勾欄付廻縁です。
円教寺摩尼殿
 摩尼殿は天禄元年(970)に建立され、何度かの火災に遭い再建されてきました。現在の建物は大正8年(1919)に 火災で焼失後、昭和8年(1933)に再建された建物です。近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が残存遺構や資料をもとに設計し、大工棟梁の伊藤平左衛門が請け負いました。
円教寺摩尼殿
 摩尼殿は近代の再建ですが、豪壮な姿で広く知られ、数少ない大規模な懸造り建築として有名です。伝統様式による木造建築で造形の規範となっているとして国の登録有形文化財に登録されました。西国33ヶ所観音霊場第27番札所にもなっていて毎日大勢の人が訪れています。
円教寺摩尼殿

 円教寺の三十三所堂は摩尼殿の下に建てられています。西国三十三所の観音像が安置されていて、ここに参拝すれば、西国三十三箇所の観音様にお参りしたことになるそうです。
円教寺三十三所堂

 円教寺にはスミレモが生えています。石垣やモミの木についている橙色のコケのようなものが「スミレモ」です。緑藻の1種であるこの植物は、水の中に生えるアオノリと同じ仲間です。水中生活をしないで、水分のほとんどない所に生えています。
円教寺スミレモ

 円教寺にある杉の大木です。地上8mほどで二つに分かれています。幹周りは約8.4m、樹高は約35m、樹齢は700年と推察されています。昭和47年(1972)姫路市自然保護条例で保存樹と指定されています。
円教寺杉大木

西谷
 摩尼殿の奥は西谷と呼ばれています。大講堂・常光堂・食堂(じきどう)があり、これらの3棟を総称して「三之堂」(みつのどう)といわれています。西谷は三之堂を中心に僧侶を養成する道場がすべて整えられています。大講堂に接して、築地塀で囲まれた本多家墓所があり、南方には鐘楼、法華堂、榊原家墓所、金剛堂、松平家墓所及び薬師堂があります。西方には奥之院があり、開山堂、護法堂、護法堂拝殿、不動堂などがあります。

円教寺本多家墓所
 本多家墓所は円教寺大講堂の東南の隅にあり、土塀で囲まれています。この場所は以前は2つある五重塔の西塔が建てられていたそうです。元徳3年(1331)の大火で焼失したため、本多家の墓所になりました。宝形造りの廟屋5棟と本多忠刻らの墓碑があります。
円教寺本多家墓所
 5棟の廟屋は、江戸初期から中期にわたる廟屋の建築として県下でも例のない珍しいもので、兵庫県指定文化財に指定されています。姫路城主であった本多忠勝、忠政、政朝、政長、忠国の墓塔である五輪塔を安置しています。
円教寺本多家墓所

 円教寺の寶蔵跡が本多家墓所の隣にあります。慶長15年(1610)に建立された本多家廟屋より以前に寶蔵は建てられていました。霊仏霊寶目録には「性空上人御真影」「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」など78点が収蔵されていましたが、ほとんどが焼失したそうです。
円教寺寶蔵跡

円教寺大講堂
 円教寺の大講堂は円教寺の本堂に当たる堂で、お経の講義や論議が行われる学問と修行の場です。常行堂、食堂とコの字型に立ち並んで「三之堂」(みつのどう)を形成しています。
円教寺大講堂
 大講堂は間口7間、奥行6間、二重一階、入母屋造り、本瓦葺きの大きな建物です。寺記によると元徳3年(1331)の落雷と、永享8年(1436)の火災で、五重塔、常行堂、食堂、経蔵とともに焼失しました。現在の堂は、墨書銘により下層が栄享12年(1440)、上層が寛正3年(1462)に再建され、文明年間(1469-1487)に整備された建物です。
円教寺大講堂
 大講堂の中は内陣と外陣に区切られていて、内陣には、釈迦三尊像(中央が釈迦如来、右が文殊菩薩、左が普賢菩薩)が安置されています。像は円教寺創建期の10世紀頃に造立され国の重要文化財に指定されています。大講堂も大正2年(1913)に国の重要文化財に指定されています。
円教寺大講堂

円教寺常行堂
 円教寺の常行堂は常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場で常行三昧堂とも呼ばれます。建物の構成は、方5間の大規模な東向きの常行堂、北に接する長さ10間の細長い楽屋、その中央に張り出した舞台からなっています。舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものです。
円教寺常行堂
 常行堂は間口5間、奥行5間、単層、入母屋造り、向拝1間付き、本瓦葺きです。中門及び楽屋は間口南面10間、北面9間、奥行2間、単層で、中門は切妻造り、楽屋は常行堂よりの葺きおろし、本瓦葺きです。舞台は間口11間、奥行1間、単層、北面は唐破風造り、南面は中門、楽屋に接続した本瓦葺きです。
円教寺常行堂
 常行堂内部は中央に2間四方の瑠璃壇を設け本尊丈六阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)が安置されています。常行堂は元徳3年(1331)の落雷と、永享8年(1436)の火災で、五重塔、大講堂、食堂、経蔵とともに焼失しました。常行堂は享徳2年(1453)、中門及び楽屋、舞台は寛正4年(1463)に再建されました。昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。
円教寺常行堂

円教寺食堂
  円教寺食堂(じきどう)は「三之堂」の一つとして中央に位置し、古くは三宝院と呼ばれていました。本来は、修行僧の寝食のための建物です。承安4年(1174)後白河法皇の勅願で創建されています。非常にめずらしい2階建て建築で、長さ約40mと広大です。現在1階は写経道場、2階は宝物館として、食堂本尊の僧形文殊像のほか、諸堂の仏像などがここに移されています。
円教寺食堂
 食堂は間口15間、奥行4間、総2階建て、入母屋造り、本瓦葺きです。1階は柱間15間のうち、北寄りの1間を引戸とするほかはすべて蔀戸となっています。腰壁を設け、内部は円柱が並ぶ広大な1室としています。2階建の仏堂としては、わが国の指定文化財のなかで最大規模な建物です。
円教寺食堂
 食堂は元徳3年(1331)の落雷で他の堂宇とともに焼失しました。暦応元年(1338)に上棟した伝えられていますが、寛正年間(1460-1465)頃の再建と考えられています。昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定され、昭和38年(1963)には大規模な解体修理が行われ未完の堂宇が完全な形で蘇りました。
円教寺食堂

 円教寺の鐘楼は鎌倉時代後期の様式で、県下では最古の遺構です。間口3間、奥行2間、入母屋造り、本瓦葺きで、袴腰(はかまごし)付きで腰組を持った正規の鐘楼です。寺伝によると元弘2年(1332)に再建された建物で、銅鐘は元亨4年(1324)に再鋳された鐘と伝えられています。鐘楼は昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されています。銅鐘は県指定文化財です。
円教寺鐘楼

 円教寺の法華堂は法華三昧堂といわれ、創建は寛和3年(985)に播磨国司藤原季孝によって建てられました。間口3間、奥行3間の宝形造りで、本瓦葺きです。白木造りで、軒下の欄間部は白漆喰で仕上げられています。昔は檜皮葺きで南に面していたようです。本尊は普賢菩薩で、建物、本尊ともに江戸時代の造立です。
円教寺法華堂

 円教寺の十地院は、もと開山堂西側に広大な敷地をもつ塔頭でしたが、現在は墓地のみが残るだけで、茶屋になっています。映画「ラストサムライ」のロケの時、主役トムクルーズの休憩所になったそうです。
円教寺十地院

 円教寺の薬師堂は根本中堂とも呼ばれ薬師如来を祀っています。性空上人が3間4面の堂に造り替えたと伝えられ、延慶元年(1308)に焼失しました。現在の建物は元応元年(1319)に再建されたもので、円教寺では最も古い遺構です。挿肘木などに大仏様の手法がみられ、組物や虹梁に当時の特色が残っています。
円教寺薬師堂

 円教寺にある榊原家廟所は鐘楼の近くの石垣の上にあります。姫路藩主となった榊原政房と政祐の2基の墓碑が享保19年(1734)に政岑(政祐の養子)によって建てられています。
円教寺榊原家廟所

円教寺金剛堂
 円教寺の金剛堂は間口3間、奥行3間、入母屋造り、本瓦葺き建物です。現在の建物は西妻の羽目板の墨書銘によって天文13年(1544)に建てられたもので、昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されています。内部は仏壇が設けられ厨子が安置され、天井には天女像が描かれているそうです。
円教寺金剛堂
 金剛堂のあるこの場所は以前は円教寺の塔頭の1つ普賢院の境内でした。金剛堂は普賢院の持仏堂であったようです。普賢院の創建は永観2年(984)で当時は円教寺を開いた性空上人の居所とされ、ここで金剛薩堆に上人が会い、密教の印を授けられたといわれています。
円教寺金剛堂

円教寺奥之院
 円教寺奥之院は、伽藍西奥の西谷にあります。西奥に開山堂が東面し、その東に接するように南面する護法堂の若天社、乙天社とその正面に護法堂拝殿が建てられています。

円教寺開山堂
 円教寺開山堂は、間口5間、奥行6間の宝形造りで、本瓦葺きです。円教寺開山の性空上人をまつるために建立された堂で、寛弘4年(1007)に高弟延照により建てられたといわれますが、弘安9年(1286)に焼失したようです。今の建物は寛文11年(1671)に再建されたものです。昭和43年(1968)に兵庫県指定文化財になっています。
円教寺開山堂
 開山堂は奥之院の中核寺院で、書写山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け、朝夕欠かさず勤行が行われています。堂内の厨子には性空上人の遺骨が入れられた等身大の木像が納められています。軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻があり、西北隅の一つは重さに耐えかねて逃げ出したという伝説があります。
円教寺開山堂

円教寺護法堂
 円教寺の護法堂は、性空上人に付き添って仕えた乙天(本地不動尊)と若天(本地毘沙門天)の2童子を祀る書写山の鎮守社です。乙天社・若天社とも一間社の隅木入春日造り、檜皮葺きで、永禄2年(1559年)に建てられています。昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。
円教寺護法堂

円教寺護法堂拝殿
 円教寺の護法堂拝殿は間口7間、奥行2間、単層、切妻造り、本瓦葺きの細長い建物です。開山堂参籠行者の、護法堂への勤行、礼拝のための建物で、天正17年(1589)建てられています。開山堂、護法堂とこの拝殿の配置は「三之堂」と同じ形式で、本殿と拝殿が広場をへだてて相対しています。
円教寺護法堂拝殿
 護法堂拝殿は神社形式を取り入れた仏殿のような建物で、一風変わった拝殿です。弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃にここで修行したことから「弁慶の学問所」と呼ばれています。勉強机も残されていて食堂に展示されています。拝殿は平成26年(2014)に国の重要文化財に指定されています。
円教寺護法堂拝殿

 円教寺の護法堂の奥に和泉式部の歌塚があります。一条天皇の中宮彰子に仕えていた和泉式部は、彰子に伴って性空上人を訪ねました。面会を断られた式部は寺の柱に一首の和歌を書いたそうです。
 くらきより くらき道にぞ 入りぬべき
 はるかに照らせ 山の端の月
和泉式部歌塚

 円教寺の食堂と大講堂に挟まれた一角に、弁慶の鏡井戸があります。長さ3m、幅2mばかりの池のような井戸です。弁慶が昼寝をしている間に顔に悪戯書きされ、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し大喧嘩になったそうです。それがきっかけで山内が大火事になったといわれています。
円教寺弁慶鏡井戸


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