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兵庫の旅と歴史
兵庫の旅    篠山市

篠山城跡
ささやまじょうせき
兵庫県篠山市北新町2−3
Tel 079-552-4500


 篠山城は桐ヶ城ともよばれ篠山市街地の中央にあります。慶長14年(1609)、徳川家康は、親藩の松平康重を笠間藩(茨城県笠間市)から従来からあった八上城に5万石で移封させ、八上城を廃して新たに篠山城を築城させました。
 篠山は交通の要衝で大阪城の豊臣家に対する軍事的拠点になり、豊臣恩顧の西国大名と豊臣家を分断する布石にもなりました。築城の普請奉行は姫路52万石の池田輝政、縄張りは津22万石と藤堂高虎が命ぜられました。
 助役として広島49万石福島正則、土佐20万石山内康豊をはじめ、西国の15ヶ国の外様大名が命ぜられました。8万人の労力と財力が投入され、6ヶ月という速さで慶長14年12月に篠山城はほぼ完成したそうです。
 城郭は篠山という小山を利用した平山城で東西、南北とも約400m、天守閣はありませんが、本丸の北東の高台には殿守丸を配し、さらに東西19m、南北20m、石垣高さ17mの天守台があります。本丸と二の丸には3重櫓があり天守閣のような役割を果たしています。
 二の丸には、大書院、小書院、中奥御殿、奥御殿、台所、庭園などがあり儀式や執務を行う重要な場所でした。大書院は京都二条城の御殿を模したといわれています。東西28m、南北26mと大規模で、格式の高いものでした。昭和19年(1944)の火災により焼失し、再建されています。
 元和5年(1619)、松平康重が岸和田藩に移封になり、高崎藩(群馬県高崎市)から松平信吉が入封しました。翌年、信吉は死去し、松平忠国が2代目になりました。慶安2年(1649)に忠国は明石藩に移封になり、高槻藩から松平康信が5万石で入封しました。。
 寛延元年(1748)、5代目松平信岑が亀山藩に移封になり、亀山藩から青山忠朝が5万石で入封しました。2代目青山忠高は儒学者を登用して藩校・振徳堂を建設し藩士の教育と文化発展に努めました。4代目青山忠裕、5代目青山忠良は老中の要職についています。青山家は明治維新まで6代続きました。

 篠山城の天守台は東西約18m、南北約20mです。石垣の高さは約17mもあり、天守閣は堅固すぎるとの理由で建てられず、天守台南東隅に4m四方の一重の隅櫓が建てられました。築城当初は現在の二の丸が本丸でした。現在の本丸は天守台が造られたことから殿主丸と呼ばれていたそうです。
篠山城天守台

 大書院は、明治維新後、篠山城の大部分の建物が取り壊された中、唯一残されていました。しかし昭和19年(1944)に焼失してしました。現在建てられている大書院は平成14年(2002)に再建された建物です。江戸時代中期の間取り図を基に1億円1千万円をかけて建立されたそうです。
篠山城大書院

 明治4年(1871)に篠山城は廃城となりました。明治15年(1882)藩主であった青山家に因んだ青山神社が篠山城内の本丸のあった所に建てられました。青山家の遠祖・青山忠俊を祭神としています。拝殿は間口3間、奥行2間の入母屋造り、銅板葺きで1間の向拝があります。本殿は一間社流造り、銅板葺きです。
青山神社


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